山本暲
山本 暲(やまもと すすむ、1896年〈明治29年〉9月9日[1][2] – 1965年〈昭和40年〉12月21日[1][2])は、日本の政治家、弁護士。高知市長(1期)。在任中、 板垣退助邸荒廃破却事件を起し文化財の破壊を行った[3]。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]高知県高岡郡久礼村(現在の中土佐町)出身[1][4]。高知県立第一中学校(現在の高知県立高知追手前高等学校)に入るが中退。中退後早稲田大学専門部に入学したがここも中退した[1][4]。高等文官試験行政科、司法科の両方を受けて合格[4]。各県の特高課長や沖縄、広島各県の学務部長、熊本、岡山各県の経済部長などを務め[1]、岐阜県内務部長となる[1]。
1947年(昭和22年)公選制となった高知市長選挙に立候補し、当選[1][4]。高知市は高知大空襲による戦災に加え、1946年(昭和21年)暮れに起きた南海大地震で打撃を受けた。しかし、山本は市長として、まず手掛けたのは市民の住宅の再建で、1千戸余りの住宅を確保した[4]。復興には都市計画に基づく区画整理や換地処理が急務となり、同時に道路や公園、上下水道などの工事も推進しなければならなかった。その実施には市民との間に生活に関わる多くの問題が生じた。代表的な事件としては板垣退助邸荒廃・破却事件が挙げられる[3]。
板垣退助邸荒廃・破却事件
[編集]松尾富功禄から大野勇までは、郷土の偉人板垣退助を顕彰する板垣会(財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会)の会長を高知市長が兼任し、事務局も高知市役所内に置かれたが、前任の市長・大野勇が公職追放によって失職した際、板垣会と高知市長が代表を兼任する関係性が断たれた。1946年(昭和21年)暮れに起きた南海大地震の結果、戦後の住宅難と震災の影響により、文化財として扱われてきた500坪の旧板垣退助邸(保存のため高知市九反田に移転されていたもの)を、転用住宅(仮設住宅)として転用し、11世帯35名を、1947年(昭和22年)から4年間にわたり使用させたことにより、階下15畳の大広間の建具の紛失、松竹図柄の価値のある襖絵は5枚を残して総て消失、二階は傷んで崩れかかり、建屋も傾きつっかい棒で支える状態となり、高知市は最終的に修築を断念し破壊させた[3]。この時、同年4月の選挙に敗れて職を退いていた山本は、責任問題となることを恐れてメディアからの取材を逃げ周り、やむを得ず助役が対応にあたっている[3]。
市長退任後
[編集]山本は1951年(昭和26年)4月、市長選挙で元衆議院議員の氏原一郎に敗れた。落選後は弁護士となり、改進党高知県連幹事長、高知信用組合組合長、赤岡簡易裁判所判事などを務めた[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長 第3巻』歴代知事編纂会、1985年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。
- 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。