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大野勇 (高知市長)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大野 勇(おおの いさむ、1880年明治13年〉1月10日[1][2][3]1973年昭和48年〉11月5日[3])は、日本政治家高知市長財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会第8代会長。財団法人板垣伯銅像保存会初代会長、財団法人板垣会と名称変更後の初代会長[4]

来歴

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教育者・大野直賢の長男として[5]高知県高岡郡別府村(のちの仁淀村、現在の仁淀川町)に生まれる[1][2]。母は中越常太郎の長女・梅代[6]

高知師範学校[1]。中等教員検定試験に合格する[1]台湾に渡り、台湾総督府立中学(現在の台北市立建国高級中学)、松本中学(現在の長野県松本深志高等学校)ほか各中学校教諭を歴任する[1]京都市役所に入り、視学、社会課長となり[1]1928年(昭和3年)に市政研究のため、欧米に出張する。パリの市営競馬や清掃制度、市場研究に重点を置き、帰国後に京都中央市場の設立に力を尽くし[2]、市場長となる[1]。その後、京都市助役となる[2]1941年(昭和16年)に高知市長に就任、この時、財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会第8代会長にも就任した[2]

就任した年の暮れにあたる12月8日支那事変が拡大し大東亜戦争が勃発。国家総動員体制下での市政運営を迫られた。1942年(昭和17年)6月には高知市は周辺の10ヶ町村を合併し、市域を拡大した。戦時体制は強化される一方、戦況は悪化の一途をたどり、1945年(昭和20年)7月4日、高知市も空襲を受けた(高知大空襲)。やがて終戦となり、大野は終戦後も市長の職に留まっていたが、1946年(昭和21年)7月20日[7]公職追放を予見して辞職した[8]

家系

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先祖は大野直昌の弟で、伊予国大洲若宮亀の城主・大野直之。直之は河野弾正の女を娶り、土佐国吾川郡森山に住した。法名は直心院殿円行道知大居士。墓は愛媛県喜多郡島阪村にあり、直之の子・大野新助直隆は長曾我部氏に仕えた。のち小野姓に改め元和7年8月24日に没した。法名は寿明院殿徹僊長栄居士。墓は名野川森山にあり、毎年10月19日を例祭日として大野氏・小野氏が参集する[9]

著書

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  • 『喜寿・凡語』高知県文教協会、昭和32年(1957年)1月1日
  • 『わたくし』昭和38年(1963年)10月5日

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『大衆人事録』第14版、近畿、中国、四国、九州篇、高知2頁。
  2. ^ a b c d e 『日本の歴代市長 第3巻』歴代知事編纂会、400頁。
  3. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』379頁。
  4. ^ 同会は「板垣伯銅像記念碑建設同志会」から「財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会」となり、終戦直前「財団法人板垣伯銅像保存会」となり、板垣銅像を供出後「板垣会」と合併して「財団法人板垣会」となった組織で、名称変更前からの通算では第8代会長となる。
  5. ^ 『わたくし』大野勇著、54-60頁
  6. ^ 『わたくし』大野勇著、55頁
  7. ^ 『わたくし』大野勇著、1963年、45頁
  8. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛高知市」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、491頁。NDLJP:1276156 
  9. ^ 『わたくし』大野勇著、186-189頁

参考文献

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