ヴィローチャナ
インド哲学 - インド発祥の宗教 |
ヒンドゥー教 |
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ヴィローチャナ (Virocana) は、インド神話や仏教説話で古くから、アスラ(阿修羅)族の王とされる。
解説
[編集]ヴィローチャナはアスラ王ヒラニヤカシプの孫にあたり、プラフラーダの子である。アスラ王バリ[注 1]の父である。ダイティヤ族のアスラである[1]。
『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』第8章[2]において、デーヴァ神群の王インドラ(帝釈天)、アスラ族の王ヴィローチャナが「本当のアートマン(自我)とは何か」という真理を求め創造主(プラジャーパティ)の元を訪れ32年間修業したとある。その奥義を得てヴィローチャナは満足し、アスラたちに伝えたという。
ヴィローチャナとインドラがプラジャーパティに聞いた真理とは「美しい飾りをつけ、水や鏡に映る身像、それこそ自我であり、梵(宇宙の真理)である」というものであったという。ヴィローチャナはこれを聞いて満足して帰ったという。しかし、インドラはこの嘘(盲目の人は水面の姿を見ることができないではないか)に気がつきプラジャーパティの元に戻りさらにたずねさらにプラジャーパティに質問すると、プラジャーパティは「そうだ」と言い、それを聞いたインドラはさらにプラジャーパティの元で32年間修行した。次に聞いた梵は「夢こそアートマン」という答えであった。最初納得して帰ったインドラだがふと足を止めて「悪夢を見たらそれがアートマンである。そんなのがアートマンであるはずがない」として師のところに戻ると師は「そうだ」といい、さらに数年間修業し最終的には夢の中にある「無我」こそアートマンという真なる答えをインドラはようやく得る[注 2]。
しかし、インドラは、
「本当は、この者は、その時、『これは私だ』というように自分自身を知ってはいないし、ましてやこれらの存在物を知りもしない。その者は実に消滅に到達した者となっているのである(vinaea evapito bhavati)。私はそのようなものに価値を認めない。」とインドラは言ったという。 — 赤松 明彦、 「インド哲学としての自我と無我」(28-33)、『日仏東洋学会』2009年、pp.10-17
と納得していない。
また、この故事が原因で宮坂宥勝(高野山大学)によると「インドの古代文献で唯物論者(Cāruāka)を呼ぶのにAsura(ときとしてRākṣasa, Yaksa)の呼称を用いること、しばしばであると想起したい、と思う」と記述している。ヴィローチャナが奥義とした「身体自我説」は非アーリア系民族が生み出した奥義として下劣なものとされた[3]。
仏典では『サンユッタ・ニカーヤ』11篇第一章第八節「阿修羅の主であるヴィローチャナ(あるいは目的)」に登場しており、対応する求那跋陀羅訳『雑阿含経』の漢文(一一一九)では「鞞盧闍那子婆稚阿修羅王」と表記される。この経典には釈迦の前でサッカ(帝釈天)と対話するシーンが収められている。帝釈天が「怒り狂う他人を静止するためには『耐え忍び、静かにしていること』だ」と言った。また「人は目的が達成まで努力せねばならぬ。目的が達成されたのならば耐え忍ぶことより優れたものはない」の言ったに対し、ヴィローチャナは「耐え忍ぶという部分に過失がある。これでは愚者はますます増長してしまう」と言ったという。さらに「一切の生き物は目的を目指して生まれたものであり、分に応じて努力が達成されたのならば、享楽は目的に応じて享受することが最高である。」とヴィローチャナが徳目を説いて付け加えて返した、という内容である[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 山際素男編訳「空っぽの部屋のバリ」(『マハーバーラタ 第7巻』)50頁において、インドラ神(帝釈天)ヴィローチャナの息子バリとの問答が記されている。
- ^ 佐藤任『悲しき阿修羅』によると[要ページ番号]、肉体そのものをアートマンと考えるアスラたちの「ウパニシャッド」(奥義)だという
出典
[編集]参考文献
[編集]- 佐藤任『悲しき阿修羅』平河出版社、1981年3月。ASIN B000J7WEP8。ISBN 978-4-89203-039-0。
- 菅沼晃編 編『インド神話伝説辞典』東京堂出版、1985年3月。ISBN 978-4-490-10191-1。 ※特に注記がなければページ番号は本文以降
- 『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤII』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1986年12月。ISBN 978-4-00-333292-4。
- 「空っぽの部屋のバリ」『マハーバーラタ 7巻』山際素男訳、三一書房、1996年12月。ISBN 978-4-380-96522-7。
- 宮坂宥勝「アスラからビルシャナ仏へ」『密教文化』1960(47)、1960年
- 赤松 明彦「インド哲学としての自我と無我」(28-33)、『日仏東洋学会』2009年、pp.10-17