長井挙冬
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時代 | 鎌倉時代、南北朝時代 |
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生誕 | 正和3年(1314年)[1] |
死没 | 貞和3年(1347年)3月24日[2] |
改名 | 高冬(初名)→挙冬 |
別名 | 通称:備前二郎[3]、長井右馬助[3][4][5] |
官位 | 右馬助、掃部頭[6]、従五位下[6] |
幕府 | 鎌倉幕府→建武の新政、雑訴決断所 |
主君 | 北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏 |
氏族 | 大江氏姓長井氏 |
父母 |
父:長井貞秀?[7] 母:宇都宮入道の娘[8] |
兄弟 | 貞懐、広秀[9]、挙冬、師元、頼元、氏頼 |
子 | 氏元、元冬 |
特記 事項 | 長井氏嫡流、大江氏惣領 |
長井 挙冬(ながい たかふゆ、正和3年(1314年)[1] - 貞和3年(1347年)3月24日[2])は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・大江姓長井氏嫡流の当主。通称は右馬助[3][4][5]。
生涯
[編集]鎌倉時代当時の史料や古文書から、当初は高冬(読み同じ)と名乗っていたことが判明しており[10]、「高」の字は執権・得宗の北条高時より偏諱を受けたものとされている[11]。
嘉暦年間に長井宗秀[12]の遺跡を継ぐ形で、美濃国茜部荘正地頭となっており[3]、長井氏惣領として活動していたことが窺える[13]。
元弘元年(1331年)11月、元弘の乱が起こったのに伴い、その沙汰のために太田時連とともに東使として上洛した[4][5]が、元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅ぶと、高時からの偏諱を棄て挙冬と改名[14]、後醍醐天皇によって始められた建武の新政では訴訟機関として設置された雑訴決断所の構成員となった。
しかし、その後は建武政権に反旗を翻した足利尊氏に従い、翌延元元年/建武3年(1334年)に同じ大江一族で後醍醐天皇に従っていた毛利貞親・親衡父子が尊氏の武家政権に対抗して挙兵した後には、尊氏の命により貞親の身を預かっている[15]。
死後
[編集]挙冬の系統はその後、氏元(うじもと)・氏広(うじひろ)・兼広(かねひろ)と続き、その偏諱から察するに、長井広秀(ひろひで)の系統(武蔵長井氏)同様、鎌倉公方足利氏の支配下となったものとみられる。文和元年(1352年)足利尊氏が長井備前太郎に対して出羽国寒河江荘北方の横領への対処を求めた[16]記事以降、中央史には見えない[17]。 のちに出羽長井氏が伊達宗遠・政宗の侵攻により衰退しており、挙冬の系統も兼広以降は諸系図に確認されていない。
脚注
[編集]- ^ a b 『常楽記』記載の没年齢より逆算(別途脚注参照)。
- ^ a b c 『常楽記』貞和三年三月二十四日条。
長井右馬助擧冬他界。三十四
『系図纂要』にも同様の記載があるが、この記事から貞和3年(1347年)に34歳で死去したことが窺えるため、生誕年が正和3年(1314年)と分かる(紺戸、1979年(『中央史学』二 p.16~17))。これに基づけば、おおよそ1323~28年の間に元服したものと推定することができ、この期間の得宗家当主であった北条高時と烏帽子親子関係を結んだと考えられる(紺戸、1979年(『中央史学』二 p.16~17))。 - ^ a b c d 元徳4年(1332年)4月日付「茜部荘地頭代俊行陳状案」(590号)「正地頭長井備前二郎高冬」、正慶元年(1332年、元徳より改元)7月10日付「茜部荘雑掌定尊重申状」(594号)「當庄地頭長井右馬助高冬」、正慶2年(1333年)2月日付「東大寺申状案」(553号)「當地頭右馬助高冬」。( )は『大日本古文書』第18巻・東大寺文書における文書番号を示す。
- ^ a b c 『鎌倉年代記』元弘元年条。
十一月討手人々幷両使下著。同日長井右馬助高冬。信乃入道々大。為使節上洛。 - ^ a b c 『花園天皇宸記』元弘元年11月26日条。
今日東使高冬上洛云々。 - ^ a b 『系図纂要』。
- ^ 『尊卑分脈』等の系図類による。但し、貞秀は挙冬が生まれる6年前の徳治3/延慶元年(1308年)に亡くなったとされており(永井晋「長井貞秀の研究」)、実父ではない可能性が高い。
- ^ 「永正本大江系図」(所収:『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』)より。「宇都宮入道」については、永井晋は景綱に比定している(永井晋「長井貞秀の研究」)。「最上院本大江系図」(所収:『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.35)では妻とする。
- ^ 『尊卑分脈』、『系図纂要』。『群書類従』所収の系図等では叔父。
- ^ 『鎌倉年代記』と『花園天皇宸記』における記載(別途脚注参照)から、元弘元年(1331年)当時は「高冬」と表記していたことが確実であり(紺戸、1979年(『中央史学』二 p.16、p.26の脚注(8)))、『東大寺文書』に所収の古文書(別途脚注参照)から1332年・1333年の段階でも「高冬」を称していたことが窺える。
- ^ 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図ほか)、細川・2000年・巻末基礎表P.93。
- ^ 系図類では祖父とされる。
- ^ のちの「毛利元春自筆事書案」(『毛利家文書』15号、『大日本古文書』所収)には「惣領長井右馬助」と書かれており、同族の毛利家からも惣領として認識されていたことが窺える。
- ^ 「挙」の字が「高」と同じ「タカ」という読みであることや、「長井」の苗字、「右馬助」という通称名から、高冬と挙冬が同一人物である根拠とする見解もある(小泉宜右「御家人長井氏について」、細川重男・2000年・巻末基礎表P.93)。恐らくは祖先・大江挙周に名字を求めたものとみられる(『尊卑分脈』には挙周のルビに「タカチカ」とある)。同様の改名の事例として、足利尊氏(高氏)、足利直義(高国)、小田治久(高知)、小山秀朝(高朝)などが挙げられる。改名の理由については、高冬が東使として上洛したのに見られる通り(本文参照)、後醍醐天皇配流問題に直接関与したことを憚ったが故の行為とする見解もある(小泉宜右「御家人長井氏について」)。
- ^ 武家家伝_国司氏 より。典拠は「毛利元春自筆事書案」(『毛利家文書』15号、『大日本古文書』所収)。
- ^ 「瑞泉寺文書」『大日本史料』第6編17冊4頁。
- ^ この命令は不調であったらしく、延文2年(1357年)足利義詮も同様の命令を出すが、奥州管領吉良貞経に対して命令を下した。「武州文書」『大日本史料』第6編21冊240頁-241頁。
参考文献
[編集]- 『閥閲録』
- 小泉宜右 「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』続群書類従完成会、1970年)
- 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年)
- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)
- 北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社、2001年)
- 永井晋「長井貞秀の研究」(所収:『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)、初出:『金沢文庫研究(第315号)』(金沢文庫、2005年))
- 東京大学史料編纂所データベース 『大日本史料』・『大日本古文書』