長井宗秀
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 1265年(文永2年) |
死没 | 1327年12月20日(嘉暦2年11月7日) |
改名 | 宗秀、道雄(法名) |
官位 | 甲斐守 宮内大輔 掃部頭 |
幕府 | 鎌倉幕府、引付衆、越訴頭人、執奏 |
主君 | 北条時宗、北条貞時、北条師時 |
氏族 | 大江氏姓長井氏 |
父母 |
父:長井時秀 母:安達義景娘 |
兄弟 | 宗秀、貞広、女、斯波宗氏妻、女 |
妻 | 北条実時(金沢実時)娘 |
子 | 貞秀、時千、広秀(※)[1]、冬時[2]、女、女 |
特記 事項 | 長井氏嫡流、大江氏惣領、『吾妻鏡』の編纂者 |
長井 宗秀(ながい むねひで:1265年(文永2年) - 1327年12月20日(嘉暦2年11月7日)[注釈 1])は鎌倉時代後期の人物、鎌倉幕府の御家人[5]。
父は長井時秀[5][6][2]、母は安達義景の娘[7]。北条実時(金沢実時)の娘を妻とし[8][9]、その間の子に長井貞秀[6][2]がいる。その他の男子に、長井時千[6][2]、長井冬時[2]がいる。
生涯
[編集]父・時秀が評定衆となった年[5]に生まれる[注釈 1]。のち元服に際して、北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第8代執権)の北条時宗より偏諱を受け[注釈 2]、宗秀と名乗る。
弘安5年(1282年)4月、18歳にして引付衆、宮内権大輔となった[5]が、弘安8年(1285年)霜月騒動で安達氏と親族であったため失脚したという。しかし正応6年(1293年)平禅門の乱の後復帰し、永仁元年(1293年)5月に29歳で越訴頭人となり、同年10月に第9代執権・北条貞時が裁判機関の引付衆を廃し、執奏を設置してその最終判決権を掌握して幕政を合議制から得宗独裁へと変えたとされる際には、その執奏に就任している。永仁2年(1294年)二階堂行藤とともに鎌倉幕府の使者として上京する[13]。
執奏7人の中で北条氏以外では2名だけであり、更に7人の中で北条師時(のちの第10代執権)に次ぐ若さであり、北条貞時政権の重要メンバーであったことが解る。永仁3年(1295年)に執奏が廃止され引付が復活するとそこから外れるが、寄合衆及び復活した評定衆に在任しており[注釈 3]、おそらくは永仁元年(1293年)5月段階から寄合衆に加わっていたものと思われる。永仁6年(1298年)4月には引付頭人となり[14][5]、のち1309年(延慶2年)3月15日に七番引付頭人を辞すまで、幕府、あるいは得宗家の重職についている。
出家後は道雄(どうゆう)[注釈 1][5][15]と称し、嘉暦2年(1327年)11月7日に死去した(享年63)[注釈 1]。
備考
[編集]『吾妻鏡』に於ける大江広元の顕彰記事、そして同1232年(貞永元年)12月5日条の、大江広元の頃の「壽永・元暦以来京都より到来する重書並びに聞書、人々の款状、洛中及び南都・北嶺以下、武家より沙汰し来たる事の記録、文治以後の領家・地頭所務條々の式目、平氏合戦の時東士勲功の次第・注文等の文書」が分散してしまった為、北条泰時がこれを集めさせ、目録とともに長井泰秀(広元の孫で宗秀の祖父)に渡したとある件、そして推定される編纂年代から、この長井宗秀も『吾妻鏡』の編纂者のひとりとされる。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c d 『鎌倉・室町人名事典』では生没年未詳となっているが[3]、『尊卑分脈』には宗秀について「甲斐守 宮内大輔 掃部頭」との記載があり、他に「掃部頭」を称した人物が見当たらないことから、『常楽記』嘉暦2年条に「十一月七日 長井掃部頭入道他界。六十三乙丑誕生」と見られる「長井掃部頭入道」が宗秀を指すと考えられている[4]。『鎌倉・室町人名事典』にも出家して「掃部入道道雄」と称した旨の記載がある[3]。
- ^ 紺戸淳は宗秀の元服の時期を1274年~1279年と推定してその時の得宗家当主であった時宗と烏帽子親子関係を結んだとしている[10]。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり[11]、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられる[12](→北条氏#北条氏による一字付与について)。
- ^ 永仁3年(1295年)5月27日の評定の席には「宮大宗秀」の名が見られる[3]。
史料では『永仁三年記』(著:太田時連)五月大条。廿七日 晴 御評定、太守(北条貞時)、奥州(北条宣時)、典厩(北条師時)、遠入(北条時基)、越入、尾州(北条公時)、上州(北条貞宣)、野入(宇都宮景綱)、宮大(宗秀)、隠州、勢入(二階堂盛綱)、羽州(二階堂行藤)、豊州(矢野倫景)、時連。引付、備州、民少、武庫、摂州、常州、丹廷。
出典
[編集]- ^ 寒河江市史編さん委員会 編『大江氏ならびに関連史料』2001年、96頁。但し、『尊卑分脉』等の系図類では貞秀の子(宗秀の孫)とする。
- ^ a b c d e 永井晋「長井貞秀の研究」『金沢文庫研究』第315号、2005年。
永井晋『金沢北条氏の研究』八木書店、2006年、199頁。 - ^ a b c 安田 1990, p. 433, 下山忍「長井宗秀」.
- ^ 紺戸 1979, p. 16.
- ^ a b c d e f 安田 1990, pp. 432–433, 下山忍「長井時秀」「長井宗秀」
- ^ a b c 『尊卑分脈』。
- ^ 『尊卑分脈』安達義景の娘の一人の付記に「大江宗秀母」と書かれている。
- ^ 永井晋 著「長井宗秀」、北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年、116-117頁。
- ^ 永井晋『金沢北条氏の研究』八木書店、2006年、194頁。。
- ^ 紺野 1979, p.15系図・pp.16-17.
- ^ 「長井氏」『世界大百科事典』(第2) 。
- ^ 山野 2012, p. 163.
- ^ 『資料総覧』第5編905冊405頁「勘仲記」
- ^ 「北条九代記」四月九日条、正月十三日為頭人、『史料総覧』5編905冊438頁
- ^ 「北条九代記」乾元元年二月十八日条、九月十一日条、『史料総覧』5編905冊487頁
参考文献
[編集]- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。
- 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法―事実と神話にみる中世』吉川弘文館、2000年。
- 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4-7842-1620-8。
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。
- 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。
- 東京大学史料編纂所データベース