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前田光高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
前田光高
時代 江戸時代前期
生誕 元和元年11月20日1616年1月9日
死没 正保2年4月5日1645年4月30日
改名 犬千代(幼名)→ 利高(初名)→ 光高
戒名 陽廣院殿將巌天良大居士
墓所 野田山墓地
官位 正四位下左近衛権少将筑前守
主君 徳川家光
加賀藩
氏族 前田氏
父母 父:前田利常、母:珠姫
兄弟 光高利次利治亀鶴姫、小媛、満姫富姫、夏姫
正室:大姫
綱紀、万菊丸
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前田 光高(まえだ みつたか)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家4代。第3代藩主・前田利常長男徳川家康浅井長政お市夫妻の外曾孫で、藩祖・前田利家嫡孫である。

子に前田綱紀(長男、初め綱利)、万菊丸(次男)。幼名は犬千代(いぬちよ)。初名は利高(としたか)。

生涯

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元和元年(1616年)11月20日、前田利光(のちの利常)の長男として生まれる。母は将軍徳川秀忠の娘珠姫(天徳院)。

寛永6年(1629年)4月23日、元服し、母方の叔父にあたる将軍徳川家光より「松平」の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、松平筑前守光高と称する[1](逆に「光」の字をの下(二文字目)におくのを避けた父・利光は「利常」に改名している)。寛永16年(1639年)の父・利常の隠居に伴い、家督を継ぐ。富山藩大聖寺藩の分封と、利常の隠居領22万石の確保のため、加賀藩領の石高は歴代藩主では最少の80万石となる。

寛永20年(1643年)、嫡男犬千代(のちの綱紀)が誕生するが、この報せを聞いた直後の参勤で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ[注釈 1]

正保2年(1645年)4月5日、大老酒井忠勝を招いた茶会の席で突然倒れて急死した[注釈 2]。享年31(満29歳没)。

父・利常に先立つ死であった。家督および藩主の座は幼少の嫡男・犬千代(のち元服して綱利、綱紀と改名)が継いだが、初めの頃は祖父である利常がそれを補佐する体制がとられた。

法名は陽廣院殿將巌天良大居士。墓所は石川県金沢市野田町野田山墓地

人物・逸話

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  • 第3代将軍徳川家光は母方の叔父にあたり、家光はなかなか男子に恵まれなかったため、一時甥であるこの光高を後継者にしようとしたという。
  • 両親共美男美女と名高かった故にかなりの美男子と言われ、当時から家光の衆道男色)相手をしていた時期もあったという噂が流れていた。
  • 光高は腕力が絶倫で、指で碁石を碁盤に押し込んだという逸話がある[4]
  • 光高はなかなかの器量人であり、武芸や和漢の才に優れて『遺訓』『銘歌』『一本種』『自論記』など著作が多数ある。また光高は秀忠の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった[5]
  • 光高は下戸であったとされ、それを物語る逸話がある。隣藩の福井藩松平忠昌酒豪であったが、江戸で向かいの屋敷に住んでいた光高が突然死すると、将軍家光は忠昌の健康を心配し、飲酒を控えるように伝えたが、忠昌は短冊に一編の狂歌を書いて、家光への返事とした。「向い(の屋敷)なる加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれば 三十一で昨日死にけり」 この返事を受け取った家光は、忠昌だからしょうがない、とそのままとなった[3]。ちなみに忠昌は光高の4ヵ月後に死亡した。

官職および位階等の履歴

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※日付=旧暦

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 可観小説』には、綱紀誕生に光高は大いに喜び、誕生数日後には利常と共に連歌会を開いて喜びを歌で現している[2]
  2. ^ 突然の急死に関しては、その才能や人物を恐れた幕府による毒殺や、近臣らによる毒殺などの噂もあったとされる[3]

出典

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  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年6月、167頁。 
  2. ^ 若林 1986, p. 1.
  3. ^ a b 若林 1986, p. 7.
  4. ^ 若林 1986, p. 12.
  5. ^ 若林 1986, p. 5-7.

参考文献

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  • 山本博文『遊びをする将軍・踊る大名』教育出版〈江戸東京ライブラリー〉、2002年。ISBN 4316358901 
  • 若林喜三郎『前田綱紀』(新装版)吉川弘文館人物叢書〉、1986年。ISBN 4-642-05058-2