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岡吉正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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岡 吉正(おか よしまさ、生没年不詳)は、紀伊国土豪[1]雑賀衆の一人。仮名は太郎次郎[2]

略歴

岡氏は、雑賀庄岡に浄土真宗の道場である岡道場(現在の念誓寺[3])を運営し、天正期の道場主・岡了順は、宮本(湊)高秀・松江定久・嶋本(狐島)吉次とともに雑賀門徒の年寄衆を務めた[4]。また、了順は雑賀御坊(鷺森御坊[5])の代表者の立場にあり[6]、寺伝などで岡の城主とされている[7]

元亀元年(1570年)に始まる織田信長本願寺の戦い(石山合戦)では、岡氏ら雑賀衆は本願寺の防衛に加わり[8]、天正8年(1580年)閏3月5日、朝廷の仲介により、信長と本願寺の和睦が成立した[9]

これにともなって大坂勅使が下向してきたが、雑賀衆の中でそれに狼藉を働く者が現れたため、雑賀の年寄衆4人と鈴木重秀が連名で下間頼廉宛てに誓紙を提出した[10]。この時の年寄衆には、了順に代わり吉正が名を連ねている[11][10]

本願寺法主顕如が和睦に同意した後も顕如の子・教如はそれに従わず、籠城継続に同心するよう雑賀の年寄衆に書状を送っている[12]。この宛所として、岡氏からは了順と吉正2人の名が記されていた[13][14]。また、この書状には「猶左衛門大夫(嶋本吉次)、太郎次郎(岡吉正)可演説候」とあり、嶋本吉次と吉正が既に教如に賛同していたことが分かる[14]。一方、年寄衆の内、宮本高秀と松江定久は顕如を支持してこれには応えず、教如は以後、岡了順・吉正・嶋本吉次に対して大坂に人数を送るよう求めている[15]。最終的に雑賀門徒は講和受け入れでまとまり、同年4月8日、吉正や嶋本吉次を含む11人の雑賀衆が「向後弥可為御門跡様次第候」とする誓紙を本願寺年寄衆に提出した[16][17]。この後、翌4月9日に顕如が大坂を退出し、8月2日に教如も大坂を退去した[18]

天正13年(1583年)3月、羽柴秀吉紀州攻めを行っているが、羽柴軍が雑賀に入る前に岡の衆が湊の衆へと鉄砲を撃ちかけ、これにより雑賀は自滅したという(「宇野主水日記」)[19]。岡の衆を秀吉方に引き込んだのは有田郡の白樫氏とみられる(「白樫文書」)[20]

脚注

  1. ^ 鈴木真哉『紀州雑賀衆 鈴木一族』新人物往来社、1984年、65-66頁。全国書誌番号:84054303 
  2. ^ 和歌山市史編纂委員会 1977, p. 1110; 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 991, 993.
  3. ^ 武内 2018, p. 282.
  4. ^ 武内 2018, pp. 194–195, 281, 290–291.
  5. ^ 武内 2018, pp. 147–149.
  6. ^ 武内 2018, pp. 134, 289–291.
  7. ^ 武内 2018, p. 283.
  8. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 970–988; 鈴木 2004, pp. 92–114.
  9. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 991–994.
  10. ^ a b 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 992–993.
  11. ^ 天正8年3月20日付雑賀衆誓紙写 (和歌山市史編纂委員会 1977, p. 1110)。
  12. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 994–995; 武内 2018, p. 197.
  13. ^ (天正8年)閏3月13日付本願寺教如書状 (和歌山市史編纂委員会 1977, pp. 1111–1112)
  14. ^ a b 武内 2018, p. 197.
  15. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 995; 武内 2018, p. 197.
  16. ^ 天正8年4月8日付雑賀衆起請文 (和歌山市史編纂委員会 1977, pp. 1116–1117)。
  17. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 996; 武内 2018, p. 198.
  18. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 997, 999; 鈴木 2004, p. 127.
  19. ^ 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 1029; 鈴木 2004, p. 205.
  20. ^ 鈴木 2004, p. 205.

参考文献