湊惣左衛門
湊 惣左衛門(みなと そうざえもん、天文21年(1552年)? - 寛永5年(1628年)?)は、大坂の陣のころの紀州一揆の首謀者[1]。日高郡の土豪[1]。元雑賀衆とされる。
人物
[編集]紀伊国日高郡上野村(現在の御坊市名田町)の出で、かつて日高の湯河氏の家老であったとも、雑賀庄湊の城主であったともいう[2][3]。「湊の鈴木惣左衛門」と、鈴木氏であったとする史料もある[2][3]。
紀州一揆
[編集]慶長6年(1601年)、浅野幸長に150石で仕えるが、豊臣方の大野治長や新宮行朝らの扇動に呼応し旧雑賀衆・旧根来衆とともに蜂起し一揆をおこす。道明寺・国分方面に進出した豊臣方と、浅野軍を挟撃する構えであったとみられる[4]。
豊臣方からは、紀州一国を与えるとの約定があったといい[1]、惣左衛門は、日高郡において、豊臣方に味方すれば所領は望み次第との朱印状を持って一揆勢を集めた[2]。その結果、湯河家に所縁のあった同郡高家村の西村孫四郎、志賀村の寺井孫右衛門、中村三郎兵衛が将として加わっている[2]。しかし、かつての宿敵川瀬六郎左衛門には、その謀略を見抜かれ加勢を断られたという。
4月27日、惣左衛門は名草郡の山口喜内らとともに蜂起し、浅野長晟が樫井の戦いに出陣後の和歌山城を襲った[5][6]。
4月29日早朝に樫井の戦いに勝利した浅野長晟は、寺西清左衛門、原勘兵衛ら兵約2千をもって一揆討伐に当たらせ、数日のうちに一揆は壊滅、敗退した[4]。なお、これとは別に、一揆勢が和歌山城を攻めたものの、城方の計略に陥って敗れたという説[7]もあるが、信用し難いといわれる[8]。
浅野軍の討伐によって一揆勢の主要な者が討たれ、または捕えられる中、惣左衛門は逃亡に成功し余生を同じく豊臣方の堀内氏の領地だった新宮で暮らしたという。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『大阪陣 日本史蹟 後編』熊田葦城著、至誠堂出版、1913年(74-79頁)
- 『戦国合戦大事典 第4巻』戦国合戦史研究会編著、新人物往来社、1989年
- 『和歌山県史 近世』和歌山県史編纂委員会編、和歌山県、1990年
- 『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』鈴木眞哉著、平凡社、2004年