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称謂私言

 
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称謂私言

 
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本篇は明治二十七年二月十五日故那珂博士が大日本教育会の常集会に於て講演せられたるものにして、其口語文速記は同会雑誌第百四十二号に掲載せられたり。本篇は其口語を文語に改めて、二十七年三、四両月の第一高等中学校の校友会雑誌に載せられたるものなり。主として和漢の尊号、官爵名字、及び擡頭平闕等の事を論じ、朝鮮の称謂にも及びしものなれば、世の大義名分を論じ、制度を研究するものに欠く可からざる有益の一篇なり。

 

称謂私言

 称謂とは、己を呼び又人を呼ぶ総て官爵名号等に関する言葉を申したるにて、称謂は即ち名なり。名のことは、古の聖人も「名正しからざれば言順ならず、言順ならざれば事成らず」と仰せられたることにて、名を正うすると云ふことは、大切のことなり、此の名の事に就て此の節世間にて用ふる言葉に正しからずと思はるるやうなることも大分見える故に、其のことに就て少しく陳べんと思ふなり。箇条数も多ければ、さつさと走るべし。

 第一には、畏れ多きことなれ共、天皇陛下を指して申し上ぐる言葉に新聞其の他のものに折々見掛くる叡天皇陛下を指して申し上ぐる言葉に新聞其の他のものに折々見掛くる叡聖文武と申上ぐることなり。

 天皇のことを叡聖文武天皇と申上げたることは、余の記憶する所に拠れば、明治六七年頃の東京日日新聞に初めて見えたり。其の頃に或る投書家‥‥何人なりしか、「日報社吾曹先生は、天皇のことを叡聖文武天皇と申上ぐるが、陛下は、何時さやうなる尊号を受けさせられたることありや」と云ふ投書の見えたることありしが、遂に其の儘になりて、其れより世間にて此の尊号を用ふること一般に行はれたり。それに就て尊号のことを一寸申し述ぶべし。尊号の起りは、支那に漢の哀帝といふ馬鹿天子ありて、陳聖劉太平皇帝と号したるより始まりて、其後南北朝の頃周の宣帝と云ふ道楽なる天子、この天子隠居して太子に位を譲りて自ら天元皇帝と云ふ尊号を称へたり。是は、隠居の後の事なりき。其の後唐の世に至りて、名高き則天武后の初めて帝位に陞りたる時、群臣尊号を奉つて聖神皇帝と申したり。然るに聖神皇帝にては満足せず、二三年を経て、仏経に見えたる金輪王と云ふ語を其の上に加へて、金輪聖神皇帝と号し、それにてもまだ足らずして、オープンアクセス NDLJP:552其の上に慈氏越古と云ふ四字を加へ、其の次には慈氏越古を除きて天冊と云ふ字を加へて、天冊金輪聖神皇帝と称へさせたり。これより歴代の帝王の尊号を附くること流行して、其の尊号の著きものは、唐の玄宗の即位の初に開元神武皇帝、それより続きて其れの上に復た字を加へ、段々字を加へて、天宝十三載に至りて六遍目の尊号と云ふ時には、開元天地大寳聖文神武証道孝徳皇帝と云へり。五代の世には、石敬瑭が契丹帝の援けを得て晋帝の位に即きたる時に、契丹帝に十六字の尊号を奉りき。それより以後は、尊号益々長く、明清の尊号は、十六字或は二十字或は二十四字などの長き美号を附くるやうになれり。併し宋の仁宗、神宗抔云ふ明君は、尊号抔は受けたることなし。皇国の例にて云へば、皇朝は古より質朴を貴ばれて、尊号抔を受けたるお方は有らざれども、只孝謙天皇‥‥畏れ多きことながら、歴代の帝王の中にて余り明聖と申し奉り難き御方なるが、この天皇、始めて宝字称徳孝謙皇帝と云ふ尊号を受けさせられ、其の時の皇太后には天平応真仁正皇太后と云ふ尊号を奉らしめ給へり。これは、皇朝にて唯一度尊号を受けさせられたる例なり。孝謙天皇の尊号を受けさせられたるは、やがて唐の玄宗の盛に尊号を受けたる真似をせられたるならん。其の後は、歴代の帝王に尊号を受けさせられたるお方は御一人もあらざりき。支那には歴代の帝王に色々の尊号ある中に、唐の憲宗と云ふ天子が、淮西の賊を平らげたるに就て、其の時に奉りたる尊号は、叡聖文武皇帝と申したり。淮西を平げたるは立派なる功業なれ共、此の天子は後には道楽をして、遂に国も乱れ、政事も破れ、遂に宦臣の陳弘志に殺されたれば帝王の中にては目出度もなき人なり。支那の北京の都に帝王廟と云ふものありて、三皇五帝以来の歴代帝王を皆併せ祠れり。其の内に国を亡したる天子や人に殺されたる天子は、祠られざる例なれば、即ち唐の憲宗は帝王の廟よりも除かれたる人なり。かかる天子に附けたる尊号を世人は何故に珍重するか、甚不思議なり。尤も叡聖文武と云ふ字面は、立派なる字面なれども、聖徳を讃美するに、此の熟字に限れることもあるべからず。然るに世間にて此の熟字を多く用ふるは、或は韓退之の仏骨表の中に「伏て惟るに叡聖文武帝皇帝陛下云云」と書きたるに由りて、その真似をするにはあらざるか。仏骨表は憲宗に奉る者なれば、叡聖文武と云へるは当然の事なれども、韓退之の言なりとて、時と所とを弁へずに、其の真似しては、不都合なり。昔馬鹿婿ありて、弔詞の言葉を教へられて述べたるは善かりしが婚礼の席に又其の言葉を用ひて笑はれたりと云ふ話あり。憲宗の尊号を他の場合に用ふるは、婚礼の席に弔詞を述ぶると同じことなり。且支那にては、尊号と云ふものは、臣下より恣に附けて申上ぐることは出来ざる事なり。臣下より恣に附けては、尊号にあらずして綽号なり。若し左様に天子へ勝手に綽号を付けて上奏などに書く人あらば、支那は刑罰の厳酷なる所なれば、不敬の罪に当てらるべし。支那の法律は誠に乱暴なり。我が聖朝は総ての制度寛大なるが上に、殊に宮廷に於かせられては、斯の如き瑣末なる例抔は、お答めなく、何事も寛大のお取扱になれり。さるからに始まりは新聞に見えたる位なりしが、今に至りては立派に貴族院の上奏と云ふものにも先づ此の語を用ふるを、上にては其の儘に受けさせらるゝ事と見ゆ。世の中は実に変りたるものなり。

 貴族院の上奏のことを云へば、僅かの事なれ共、其の上奏文の始まりに臣貴族院議員と書かれたり。衆議院の上奏には衆議院議長臣某等と書きたるが、貴族院のは、職名の上に臣と云ふ字を書きたるは、甚珍し。臣の字は官職の下姓名の上に挟むべきものにて、若し臣下の姓名を略して、其の役所全体より申上ぐる場合には、太政官謹奏、中務省謹奏など云ふ様に、臣の字を書かざるは、昔の例なり。又君の前には臣名をいふと云へば、臣と云へる時は、其下に必姓名を書くべきなり。三百人を一々は書かれざれば、議長だけにても宜しからん。

オープンアクセス NDLJP:553 上奏文の序でに猶一つ云はん。上奏文には闕字をし、又平出をすることあり。是は、公式令に、天皇とか皇后とか皇太后とか祖宗列聖抔云ふやうに、古今の天子の御身の上を直ちに指して申上ぐる場合には、平出と云ひて、前の行りの初の字と同じ高さに上げて書き、又詔勅とか綸言とか聖旨とか叡慮とか或は乗輿とか車駕とか云ふやうに、直ちに天子の御身を指すには非ずして。天子に関係したる事を申上ぐる場合には、闕字すると云ふことは、公式令に明文あり。明治維新以来、其の辺のことは、誠に簡略になりて、明治五年には、今上天皇の御諱睦の字、並に仁孝天皇の御諱恵の字、孝明天皇の御諱統の字抔は、本は闕画にしたるを、今より闕画には及ばずと云ふ御達しあり、又闕字平出等の事も、それに及ばぬ事となりしを、其後又宮内省の達か内規にて、闕字平出は、やがて公式令に依ることに至れりと云ふことを、此の頃或る人より聴きたり。それは、明治何年の事なりしか、確かに、知らざれども、若しさる達あらば、勿論其例に依らざる可べからず。然るに世間にては諸官省の命令を始めとして、公式令にも依らず、名々勝手の平出又は擡頭を為す事となれり。擡頭と云ふは頭をもたぐると云ふ字にして、平出よりは猶ほ上へ上げて書くことなり。其の名々勝手に書く中に、衆議院の上奏抔には、謹で奏すと云ふ奏の字を擡頭にしてあり。此の奏とか表とか云ふ物は、臣下より奉るものなれども、上へ奉る故に上げねばならずと云ふ理窟を以で、今の清朝にては、其の書方を為す事なれども、是れは、我が公式令には無き事なり。若し今の清朝の法に拠りて書きたりと云ふことなれば、清朝の擡頭の仕方は、大変八釜しき物なり。支那は、誠にかかる儀式は倍々繁縟になりて、今の制に拠れば、祖宗とか列聖とか皇太后とか申すには、三字上げねばならす、当今の皇帝皇后なれば、二字上げて、皇子、公主、皇貴妃、貴妃、妃、嬪などは、一字上ぐるなり。又公式令とは違ひて、聖旨にても車駕にても、総て至尊に関係したる者は、残らず皆三字か二字擡頭せねばならず、山陵宗廟抔は御先祖に関係する故に、矢張三字上ぐるなり。これは、支那の制度なるが、誰もこの制度を用ふる人はあるべからず。其の制度を用ひざるに、衆議院の上奏の奏の字のみ支那風に書きたるは、余程可笑しき事なり。一体書下しの和文なれば、平出も擡頭も一つも要せざれども、若し書下し文にても、上奏抔には勿体なきやうに思はゞ、公式に依りて然るべきことなり。来月は、銀婚式と云ふ目度たき御祝あるに就きては、諸方より祝文を奉ると云ふ様子見ゆるが、定めて其の時には、聖神皇帝とか叡聖文武天皇とか或は支那の擡頭の書方抔を種々様々に用ふるならん。時としては自分より差上ぐる物の方を上に上げ、或は至尊に関係する文字は、却つて闕字をせざるなど、かゝる不都合は沢山見えはせぬかと思はる。是等の事は、誠に文字上の礼儀にして、瑣末のことの様なれども、併し日本臣民として皇室に敬礼を尽すに就きては、其の位の注意は、僅かの時間にて取調べても分る事なれば、等閑にすべき事に非ず。さるを僅かの時間を惜みて、其れらの事は何れにても善しと云ふ人は、臣子の分を尽したりとは云ひ難し。日本臣民の皇室へ対して敬礼を尽す心は斯くまでも薄くなりしかと、余は窃に慷慨するなり。

 又是は、新聞抔に見ゆることなるが、主上を指し奉りて明治天皇と書く事あり今の主上の事は、今上天皇と申すべき事にして、年号を加ふることは、昔の帝王に限れり。即ち崩御になりし帝王に非ざれば、年号を頭へ附くること無き例なれば、是も今上に対し奉りては不敬の言葉と思はる。

 次は、天子のお名の事なり。天子のお名は、古は神武天皇を神日本磐余彦尊と申し、天智天皇を天命開別天皇と申したるが如きは、御名とは申せども、尊称の如き御名なれば、誰にても其の御名を称へ上げて宜しき事にて、是は諱には非ず。皇国には古は諱は無かりしが、奈良の朝以来支那風を真似せられて、それより聖武天皇の諱はおびとと申されたるに依りて、意毘登と云ふ言葉を避けて、姓の首 の字を省きて、毘登と改オープンアクセス NDLJP:554めさせられたるが如き珍らしきことも起れり。それより歴代の帝王諱に同じき氏阝人の名などを、皆改めさせらるゝ習慣になれり。外国の真似とは申しながら、其の後は、天子の御名は、諱にして、古の尊称にはあらざれば、今となりては、御名を臣下より称へ申すことは、勿論恐れ多きことにて、申す迄もなく、加之天子御自らも其御名を称へさせらるることはあらざるなり。唯天子は、天つ神に対し奉り給ひての場合には、恰も子が父の前にて名乗ると同じ意味にて、天子も御名を称へさせらるる事あり。即ち之も支那の真似なれども、桓武天皇よりこのかた天つ神に申し奉り給へる支那風の宣命に、天皇臣何某と仰せられたる事、続日本紀などに見えたり。天子は、天つ神に対し奉り給ひて臣と仰せらるる程なれば、御名をも称へさせらるれども、其の他の場合に於ては、如何なる場合にても、天子は御名を書かせらるることなし。尤も古世の帝王の宸翰抔に御名の見えたる者あれども、是は併し表向きの詔勅には非ずして、御内々の書付なり。又勅願文抔の類に御名を書かせられたることあり。是は恐れ多きことながら、中昔より以来の帝王は、大抵御仏の前には、天つ神の前に畏み給ふと同じ御心にて敬ひ崇び給ひし故に、御名を書かせられたるならん。然るに近年に至りては、吾々臣民に下し賜はる詔勅に、天子の御名をかゝせらるゝことになれり。是れには吾々臣民実に恐縮の至りに堪へず。尤も睦仁と申す御名を直ちには拝見致し奉らざれども、其の詔勅の本書にお書きになれるに由りて、其の写しは官報や何かに御名御璽として世に出づるなり。臣民へお下しになる詔勅に天子の御名を書かせらるゝことは、和漢の例にはなきことなれば、西洋の風の移りたる者なるべし。然るに西洋の名は、皇国の諱とは違ひて、頗る尊称の意味を含めり。西洋は、名を称ふるを以て名誉とする故に、ヸクトリヤ陛下の御世に開拓せられたる土地にはヸクトリヤと云ふ名を着けて、地名にも用ひ、ジヨージ陛下の御世に開かせられたる土地にはジヨールジヤと云ふ地名を附くるが如き習慣あり。勿論かゝる意味の御名ならば、君主自から書かせらるゝ事も、怪むに足らざれども、まだ皇国には、恐れながら睦仁と云ふ御名を北海道の新開地に附せらるゝが如き事あらず。矢張御名は、天子の諱として、貴び奉るべく、諱み奉るべき御名なるに、臣民に下し給はる詔勅や勅令抔に屢御記しになることは、和漢の古例とは違ひて、甚だ恐れ多い次第なり。其の次には皇太子の御名。和漢の古今の例にては皇太子の御名も至尊の御名と同じことにて、臣民より称へ奉ることは、決してあるべからず。即ち皇太子に牋賤を奉る場合には、皇太子殿下と申上ぐる事にて、決して御名を書くことなし。然るに近頃は、新聞抔に皇太子の御事を丁寧に委しく書く場合に、皇太子嘉仁親王殿下と書きたるを見たり。学習院より差上げたる御卒業証書抔にも然記し奉れりと聞けり。是も、昔の例とは大に違へることなり。

 次は皇族方の御名称に就きて。皇族方には、御名字は無けれども、我々には皆名字あり。此の名字は、今は華士族平民に皆あれども、昔は士族以上のみ名字を称へて、平民は名字を称ふること能はず、名許り申して三太とか権助とか云へる故に、名字の附くと云ふことは、人の面目となりて居たり。皇族方には此名字の無き代りに、親王又は王と申す称号を附くるなり。皇族方に親王又は王と附くるは、人の名の下に何某公とか何某君とか云ひて崇めて附くる言葉の意味とは全く違へる者なり。故に人より称へ奉るにも御自分より称へらるゝにも親王とか王とか云ふことは略す可からざるものなり。是も甚だ恐れ多きことなれども、こゝより正面に見ゆる御額は、(講堂の額のことを謂ふ。)皇族の御書と見ゆれども、御名の下に親王の字なし、お名に仁の字ある故に、皇族なる事は直に分かれども、若し御名に仁の字の附かざる御方なりせば、昔の名許り称へたる平民と更に区別なからん。此の外皇族のお書になれる物を度々拝見したるに、親王の語を省きてお書になれるもの多し。是はいかなる故ありての習慣ならん。昔の親王は、天子の前へお出しになる御書にオープンアクセス NDLJP:555も、臣何某親王と仰せられて、親王の称は決して略かせられざるをや。尤も篆額などは、字積りの都合もある故に略かせられたるかも知らねども、必ず然のみにはあらず、学校へ御通学せらるゝ皇族方の御精書や御手帳抔にも其王とか女王とか云ふ称号を省きてお名のみをお記しなさるゝ事は、華族の学校にて大抵然り。

 次は、朝鮮の事にて、是は外国の事なれば、何れにても宜しき様なることなれど、朝鮮国の君主は、国王殿下と申して、御残念ながら皇帝とも陛下とも申す事なし。是は、御自分の御家来達も陛下とは申上げず、其御沙汰をも詔勅とは云はず、お隠れになれる時には薨ずと申すなり。然るに新聞紙の京城彙報抔云ふ所に、大院君殿下とか、世子殿下とか、義和宮殿下とか云ふこと折に見ゆ。是は、人の国のことにはあれど、国王は殿下なるに、世子や王子を殿下と申すは皇国にて申せば、皇太子や親王方を皆陛下と申上ぐると同じことなり。朝鮮には殿下は一人のみなり。世子にても大院君にても、殿下の尊称は附けられず。併し是は、間違ひたりとも、日本臣民としては、格別不都合なることも有るべからず。

 次に人の姓名のことを云はん。横文字にて姓名を書くに、那珂通世と云ふ姓名を通世那珂と顛倒して書く人あり。外国教師などの用ふる学校の出席帳の如きは、皆名の方を先きに書きて、名字を後とに附くるなり。或は名刺抔に、表には漢字にて那珂通世、裏には横文字にて通世那珂と書き、すまして居る人あり。是は、とんだ間違なり。西洋にては、名の方を先きに言ひて、姓の方を後とに云へども、皇国の習慣にては、名字を先きに言ひて、名を後とに云ふ故に、羅馬字にて書くとも、梵字にて書くとも、此の順序を更ふべき理なし。若し之を更ふるとせば、那珂通世抔は、通世那珂とも云ふべけれども、昔の人の名は、いかにすべき。楠多聞兵衛尉橘朝臣正成抔と云ふ人を西洋風に書く時は、正成、朝臣おふ橘、多聞兵衛尉楠などゝ云ふべきか。それにては矢張西洋風の姓名の順序にも適はざらん。或る人の云へるに、皇国人の姓名を横文字にて書くは、西洋文の中に入るゝが為なれば、西洋風に倒まに書きてもよからんと云へり、若し其の説に拠りて、横文字にて書く故に、向ふ風の逆まにすると云ふことならば、西洋の人の名を皇国風にて漢字にて書く時には、矢つ張り逆まにせざればならぬ道理となるべし。其の事も既に行ひたる人あり。中村敬字先生が西国立志篇の第何巻かの自序に、伊太利人マルコポーロを、字は確かに覚えざれども、波羅抹格と書けり。是は、或人の云へるが如き考へにて書きたるならん。其の外西班牙の人にて支那へ来て宣教したるメテオリツシユと云ふ人あり。其の人支那へ来て、リツシユメテオと云ひ、漢字にては利瑪竇と書けり。是は、自ら支那へ来る程なれば、態と支那風を書きたる者ならん。併しながら是も、甘くは往き難し。メテオリツシユ抔は名と名字とたゞ二つなる故に逆にしても宜しけれども、ルイナポレオンボナパルトと云ふ名をボナバルトナポレオンルイと直したりとて、加藤虎之助清正と云ふ様にも聞えず、又これよりも長き名にて、羅馬の帝カイアス、ヂユリアス、シーザア、オクタヴアナス、オーガスタス抔云ふ場合になれば、オーガスタス、オクタヴアナス、シイザー、ジユリアス、カイアスとひつくり反したりとて、それにて楠多聞兵衛尉橘朝臣正成抔云ふ姓名の順序に協へりと云ふ訳にも非ざるなり。然れば、姓名は横文字にて書きても、日本人は矢張り名字名と云ふ方こそ宜しからめ。

 次に、公卿と云ふ公の字の濫用。此の濫用は随分古くより有る事にして、遥か古を申せば、三善の清行朝臣は参議になれる丈なるに、それを善相公と古人も云ひ、其の外随分三公にならぬ人を公と言ひし例もありしが、最も濫用の多くなれるは、日本外史などに、八幡殿を八幡公、新羅殿を新羅公、左馬頭の頭殿を頭公兵衛佐の佐殿を佐公と書き、又北条公、楠公、新田公等などもかきぬ、碑銘などには、つまらぬ人にも公の字を用ひ、又人を呼ぶには、昔より尊公貴公と言ひ、遂には熊公八公と云ふに至るまで公の字を附くるやうオープンアクセス NDLJP:556になりて、随分安く使ふことになれり。皇朝の昔の例に依れば、公と云ふ字は三公に限れる者なり。三公の下三位以上の人なれば卿、四位五位なれば即ち大夫と云へり。昔は摂政関白三大臣准大臣までは、公を附けたれ共、其以下の人には如何なるゑらき人にても、公とは云ふべからざる筈なり。徳川幕府の世になりては大名と云ふもの立派に構へて居たる故に、其の家来共は、皆自分の主人を公といふやうになりて、それより殿様を公と言へば、御家老をば大夫といひ、又殿様の隠れられたるを、薨ずと言ふ。三位以上ならば、薨ずと言ひて宜しけれども、四位にても五位にても構はずに皆薨と云へり。此等の事も、其の藩の内だけなれば善からめども、他へ出でゝは通用すべからず。其中最も名分を重んぜられたる藩の事を申せば、水戸の贈大納言光圀卿にても、贈大納言斉昭卿にても、総て三位以上の方なれば、卿と申上げて相当の事なるが、然るを水戸の藩士は其お国にて光国卿を義公と諡し、斉昭卿を烈公と諡し、其他歴代の主君を皆何公と諡したり。かくて斉昭卿と云ふよりも、烈公と云ふ方分かり善きやうになりたれども、併し、何公と云ふ諡は、其の藩の内に限れる内所の名なり。皇国にて人臣に公と云ふ諡を附けられたるは、摂政良房公に忠仁公と云ふ諡を賜り、関白基経公に昭宣公と云ふ謚を賜はりたるが始まりにて、それより摂関大臣の位に昇りたる方に天子より賜はりたる者十人程あり。是等は、存生の時に三公なりし故に、薨じて後も公と云ふ謚を賜はりたるなり。武家の世になりて、大名の戒名は、所謂私証なれば、只内所の時には義公烈公とも云ふべけれ共、公けの文書抔に義公烈公と書くことは憚るべき事なり。随分水戸の人が他の人に向ひて私の国の烈公などゝ申すは、少しく耳障りの事なり。是は、尊王の志甚だ厚くして朝延の名爵を重んぜられたる光圀卿や斉昭卿の思召にも適はぬ事ならんと思はるゝなり。

 是までは、公の字の濫用を説きたるが、猶一言せば、今度は公の字卿の字を附くべき者に附けざるも、余は不都合なりと思ふ。即ち徳川家康公とか水戸の光圀卿とか言ふべき所を、家康光圀など、公も卿も附けざるは、少し失礼の言なり。小学校に通ふ小供が「家康は余程ずるいやつだ、正成はなかなか感心な男だ」抔と云へるを聞けり、先生よりは忠君愛国の心を養成せられて居る故に、口はぞんざいにても心は宜しきかは知らざれども、其の言葉つきを聞けば、大臣にても忠臣にても真に尊敬しては居らざるかと思はる。さて小学校の小供の家康はどうだとか云ふは、無理ならぬ事にて、其の読む本に、やがてその如き風に書き、鎌足、道真、家康、正成と呼び捨てに書きたるを読み慣るゝ故に、つい言葉にも公とか卿とか言はぬ訳なるべし。さて本に家康公とか正成卿とか書くことは如何と云ふことは、一つの疑問なり。或人は、「歴史の文には、それは無理ならん」と云ひたれども、余が考ふるには、皇国の昔よりの習慣にては、歴史にても何にても、皆三公以上は公を附け、三位以上には卿を附くるは、一般の習慣なりき。それを附けざるやうになれるは、何如なる故かといふに、是は、漢文の歴史の流行してよりの事なり。即ち又日本外史が引合に出づるが漢文の中に信長公とか秀吉公とか書きては支那風に非ずして面白からぬ故に、支那の歴史を真似して公卿の尊称を除きたるものなり。支那の歴史には、一般に尊称を附くる事なし。何故に尊称を附けぬと云ふに、支那は、御承知の通り始終革命ありて、次の代になりて歴史を書く故に、前代の将相大臣抔を崇むるにも及ばざる筈なり。然れども当代の事蹟を当代の人の書く時には‥‥即ち朱子の名臣言行録などには、当代の大臣をば韓魏公とか、范文正公とか、司馬温公とか書きて、決して韓琦、范仲淹、司馬光などゝ書くことなし。こゝに一つの取除は、実録体の歴史なり。実録は、天子の一代記にて、唐の太宗実録と云へば、太宗一代の事蹟を記したるものなれば、其の時の臣子の姓名を呼び捨に書くは相当の事なれども、私の歴史となれば、それとは違ふなり。さて皇国にては、何如なる例かと云ふに、六国史などは実録体のものなれば、公卿の称は附けらオープンアクセス NDLJP:557れざりき。それにてすら古代の栄称としたる尸などは必ず略かずに附けて書かれたり。神皇正統記の如き私の歴史に至りては、公は公、卿は卿と書くは常なり。皇国は万世一系の御国なれば、開闢以来数千年間の公卿大臣の事を、なる丈朱子が宋代の事を書きたる筆法を以て書きたきものなり。尤公卿の称は、公なる故に公を附け、卿なる故に卿を附けるにて、様の字抔を附けるとは意味が違ひ、低き人を高くするにはあらで、其の人に備はれる位を呼ぶものなり。其の事の尤も確かなる証拠は、神皇正統記の中に、鎮守府大将軍源の顕家卿と書けり。其顕家卿は、正統記を書きたる北畠准后親房公の子なり。自分の子を何故に卿と書くかと云ふに、自分の子ながらも、天子の公卿なるが故なり。これは、皇国の昔よりの習慣なり。其の外公式令に就きて云ふべきあれども、委しき事は略して、大抵皇国にては公卿以上の人を呼下しには書かず、呼ばざる習慣になりたり。恐れ入りたることなれ共、列聖の詔勅や御言葉にて公卿のことを仰せらるゝに、例へば鎌足公ならば大織冠とか、藤原の内大臣とか仰せられ、不比等公ならば、藤原贈太政大臣とか、淡海公とか仰せられ、又淡山神社、北野天満宮、東照宮などには御参拝もせられ、又は御代拝を御差立になる程なるに、小学校のはな垂し小僧が、鎌足、道真、家康などゝ呼び捨てに云ふは、上に対し奉りて甚恐れ多き事と思ふなり。それに就きて又今の大臣はいかに申して宜しきかと云ふに、今の大臣は、昔の三公とは別なれば、公を附くるには及ばず、又三位以上を卿と云ふことも、明治三年の官制御改正の後は、朝廷に於ても余り用ひさせられぬ様になりたれば、今は卿も附くるに及ばざらん。而して五等の爵出でたれば、爵ある人をば某候とか某伯とか言ひ、爵の無ならば、姓名又は官姓名を書きて宜しき事なり。

 次は夫人の濫用、夫人といふは、よめと云ふ字を書きたる婦人とは違ひて、公卿の奥方に限りたる名称なるが、此節の案内状を見れば、吾々のお神さんをも令夫人と書きてくることあり。世俗の一般に称ふる名にても、御息所、御台所を始めとして、奥方、奥様、御新造、お神さん、山の神抔と云ふやうに夫々段階ある事なるに、それをお神さんにても山の神にても構はずに皆夫人と云ふ日には、追々には熊公夫婦の招待状に熊公閣下、同令夫人抔と云ふやうになる事ならん。

 又閣下の称は、本支那で台閣に奉職する顕官にて、皇国ならば先づ勅任以上と云ふやうなる人を指す言葉なりしが、今は吾々どもへくる手紙にも此称の附きたる事あり。必ずしも支那の用法に拘るには及ぶまじけれども、併し九尺二間同様の家に住み居る者の処に閣下と書きて遣しては、余り不釣合にて、人を馬鹿にしたる様に当るべし。近頃名称の濫用の可笑一例は、或人より文章を見て呉れと云ふ手紙に、乙夜の覧に供すと書きてありたるが、まさかに乙夜の意味を知りて書きたるにはあるまじ。

 万歳を称ふることは、天子の外には用ひられずとか用ひられるとか云ふ論は、新聞紙に先頃見えたるやうなるが、和漢の先例より申せば、是は全く濫用なり。然らば天子の外には寿を祝する事無きかと云ふに、支那の例にては、諸侯には千歳を祝するなり。それに就きて奇談あり。五代の時に武平の節度使馬希広と云ふ人、自分の弟の武安の節度使馬希崇と云ふ者と不和にて、之を毒殺せんと思ひ、自分の邸に誘ひて饗応し、杯を弟へ指して卿の寿千歳を祝すと申したり。其の時弟は其杯につがれたる酒を何やら怪しと思ひて、其の酒を呑まずに「願はくば兄さんと五百歳づゝを分たん」と云ひて兄さん半分呑めと勧めたれば、兄は答ふる辞なく、一座白けて見えたりしが宦官に忠義なる奴ありて、進みでて其杯をひつたくり、一人にて千歳を引受けて呑みたりといふ事あり。されば支那にては諸侯を祝する時には千歳と云ふなり。併し是を皇国に行ふ事も難かるべし。いかにと云ふに、先づ政党の首領などを千歳と祝する日には、其子分なる河野とか島田とか云ふ人をば五百歳とか三百歳とか云ふべき勘定になれども、左様に段階を附くる事も、可笑しかるべし。実はオープンアクセス NDLJP:558万歳を唱ふる事の近年に至りて流行したるは、漢和の古例に依りたるには非ずして、洋語のロングリーブを万歳と訳したる者と見ゆれば、和漢の例を引きて、余り八釜しく云ふにも及ばざる事かも知らず。併しながら西洋にてもロングリーブは不断使ひにはせず、日本にて政党員が臨席すれば万歳、演説者が現はるれば万歳と云ふ様には遣らずと聞けり。日本にても、何とか万歳は非常特別の場合に限ることになしたき者なり。且又万歳はロングリーブの訳語にても、其万歳と云ふ字面は、昔は天子に限りたる言葉なりと云ふことは、心得置くべき事なり。

 又新聞紙などの言葉咎めをしては限りもなき事なるが、総理大臣の婿を末松駙馬殿などと書けるを折々見たり。是は戯れに書きたる者か。新聞屋は、若くは駙馬と云ふことは天子の婿君のことを言ふことを知らざるには非ずや。知りて書けりとすれば甚だ不敬なることなり。末松が駙馬ならば伊藤伯は天子なるべし。か様なる不都合なることは、数へきれざる程ありて、今の世は実に名分紊乱したりと云ひても宜しからん。畢竟を云へば、世間の民党とか云ふ人達などは、皇室をば尊ぶが、役人をばイジメルと云ふ様に申しては居れども、実は今の御政体になりてより、皇室の尊厳は幾分か減じたる様に思はるるなり。何故なれば、前に述べたるが如き名分を誤りたることを称へても、それを怪む人は無くなりたる様なり。偶それを怪みて、余が今晩此処にて述べたる事を後に雑誌などに出したらんには詰らぬ繁文縟礼を並べて小言を言ふ可笑しき男なりと云ひて、屹度笑ひを受くるならんと余は覚悟して居るなり。

 
前篇の補遺

 過日常集会にて、称謂の事に付て演説したる時、平出闕字の事は、一旦罷められて、其の後又公式令に依る事となりたれども、其の年月は知らずと申したりしが、今それらの官令等を小中村義象君の書き抜き置きたる者を得たれば、左に其の沿革を述べて、過日の演説の不備を補ひ、称謂を謹む心ある人の参考に供せんとす。

 明治元年十月九日太政官の御達に、「恵統睦右三字御諱に付名字等に相用申間布儀は勿論刻本等には闕画可致候事」とありしを、五年正月二十七日の御逹に、「御名睦字自今闕画に不及候事但恵統二字可為同様事」とありて闕画の制は罷められたれども、御名の字を名字等に用ゐざる事は旧の儘なり。同年六月十三日、明法寮より式部寮に対し、「別紙称謂夫々擡頭平出闕字の儀御規則も可有之哉且天子天皇詔書勅旨等御歴代同様に闕字等可致哉又は御幾代前よりは不及其儀候哉右は此節記録類編修致し浄書取掛候に付御寮御取扱振致承知度此段及御問合候也」、別紙に「先帝天子天皇皇帝陛下至尊天皇謚皇太后皇后大社陵号乗輿車駕詔書勅旨被仰出被仰付宣下御沙汰朝廷皇国」と列記して問合せたれば、式部寮は更に左院へ問合せたり。其其左院の答儀に「別紙明法寮より伺出候称謂擡頭平出闕字等の儀熟儀勘弁仕候処闕字平出の例は支那六朝以前には見及ばず隋唐代より初めて著令となりしを本邦之に模倣して大宝令にも著されしなりされど舎人親王の日本書紀太安麻呂の古事記共に此例を用ひず〈六国史中文徳実録以下始て平関あり〉二書は大宝後の著なれども猶かくの如し然らば令文は虚設にて世間通用に非ざりしを知るべし〈此事に限らずすべて大宝令は唐六典等を模したる迄にて実事に行はれざる事多きなり〉水戸藩大日本史を編するに及で平闕の例を除きしは紀記の体に基づきしと云ふ〈或説に刊行の書は別段なりと雖も古文書又は公卿方の家記目記なとにも此例あるを見ず〉夫れ平闕は臣子上を敬するの意より出づれば必ずしも禁止するには及ばじ但之を定令するときは誤て犯すものは不敬に陥る若し一々其誤犯を正さば事務の障害を生ずべし古語にも臨文不諱と云へり且つ文字は言語を写すものならずや言語に平闕なければ文字に限り平闕するの理なし況や和漢共に中古以前に之無く全く後世繁文縟礼より起りし事なれば自今此例を除オープンアクセス NDLJP:559て古礼の易簡に復し候方可然と存候事」とありたるに由りて、八月七日、式部寮は明法寮に向ひ、「先般擡頭闕字之儀御問合有之候処右は御一新後未だ一定之御規則も無之自今記録には左院見込之通総て擡頭平闕等は不相用様御治定相成候条及御回答候也」とて、左院答儀を添へて答へられたり、此等の問答の文に拠れば、明治五年に平闕を罷められたりと云ふは、記録の類に限れる事にて、章奏公文の類には関らざりしなり。次に六年二月二十八日、正院の御達に「御歴代御諱并御名の文字自今人民一般相名乗候儀不及憚事但熟字の儘相用候儀は不相成候事」とあり。この御逹に拠れば、歴代天皇の御名にて諱と申し奉る分、即ち奈良の朝以来の御名は、総て熟字の儘姓名に相用うる事は相成らざる筈なるに、大炊御門氏の大炊の二字は淳仁天皇の御諱を犯し、神野と云ふ字は嵯峨天皇の御諱を犯し、余が知れる人に安藤定省鍵屋守平高橋邦治と云ふ人あり。此の三人の名は、宇多天皇円融天皇後二条天皇の御諱に同じ。然るに此等の姓名を改むること無く、今も然称へ居れば、六年の御逹の但書も実際には行はれざりしなり。次に同年五月二十八日東京府より正院へあて「本年第百十八号御布告に付自今御歴代御諱並に御名の文字相名乗不及憚但熟字の儘相用候儀は不相成云々就ては御歴代の御諡号熟字の儘相用候儀は如何可心得哉至急御指令被下度此段上申候也」と伺ひ出でたるに、六月九日正院の指令に「伺之趣御歴代の御諡号は熟字の儘相用不苦候事」とあり。次に八年に至りて宮内大少丞より正院の内史に、「聖上両后宮御称呼并に御動作に関し候儀及詔勅御沙汰等の文字書式平出闕字不出闕の区別等御一定之制規も候はゞ委詳御調越相成度此段御依頼旁及御掛合候也」と問合せたるに、三月三日、内史の答書に「聖上両皇后御称呼云々御問合之趣致了承候右は維新以還一定の御規程は無之候得共現今公式令に依拠し致書記候儀に候此段及御回答候也但記録上には闕字平出不致候此段御承知相成度候也」とあり。此の答書に拠れば、記録上に平闕を用ひざるは、五年八月式部寮の決定に同じくして、記録の外諸公文の平闕は公式令に拠りたる趣なり。然るに近年に至りて官省の命令を始めとして諸公文の平闕擡頭の法は公式令に拠れるにも非ず、今の清朝の制に倣へるにも非ず、銘々勝手の書方と為れることは、過日の演説に述べたるが如し。

 
 

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