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ルマ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルマ

Рума

Ruma
基礎自治体・市
街の広場
街の広場
ルマの紋章
紋章
ルマのセルビアにおける位置
ルマのセルビアにおける位置
座標:北緯45度00分 東経19度50分 / 北緯45.000度 東経19.833度 / 45.000; 19.833座標: 北緯45度00分 東経19度50分 / 北緯45.000度 東経19.833度 / 45.000; 19.833
セルビアの旗 セルビア
地方 ヴォイヴォディナ
スレム郡
地区 17
面積
 • 自治体 582 km2
人口
(2011)[2]
 • 市街
30,076人
 • 基礎自治体
54,339人
等時帯 UTC+1 (CET)
 • 夏時間 UTC+2 (CEST)
郵便番号
22400
市外局番 +381 22
ナンバープレート RU
ウェブサイト www.ruma.rs
ルマ自治体の地図
正教の教会

ルマセルビア語: Рума/Ruma)は、セルビア北部ヴォイヴォディナ自治州の都市、およびそれを中心とした基礎自治体である。2011年の人口は市街が30,076人、基礎自治体全域では54,339人であった。

歴史

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この地域に人が住んでいた痕跡は、先史時代にまで遡ることができる。自治体内で最も重要な遺跡は青銅器時代のフルトコヴツィ英語版近くのゴモラヴァGomolavaの遺跡[3]で、それを含め紀元前9世紀[4]に遡るボストスカ文化英語版の2つの墓地と紀元前3千年のヴチェドル文化英語版の陶器[5] が発掘されている。

この地域で最初に暮らし始めたと知られる人々はイリュリア人ケルト人を起源とするアマンティニ英語版、ブレウチBreuciスコルディスキと言った様々な民族であった。ローマの支配時代には、元々住んでいた人々はローマ文化を取り入れ、独自の特徴を失った。ルマの自治体内に大きなローマ人の集落はなかったが、ローマン・ヴィラ英語版と呼ばれる農地の遺構が多く見つかっている。

フン族ゲルマン人アヴァール人スラヴ人の侵入により、ローマ文化は破壊された。その後、数世紀にわたり、フランク王国ブルガリア帝国ビザンティンハンガリー王国がこの地域を支配した。ルマの地名が最初に言及されたのは1566-1567年のオスマン帝国の帳簿であり、当時のルマの村には49戸の住居と1つの教会があり、3人の聖職者がいた[6]

1718年以来、ルマはハプスブルク君主国の支配下にあった。1746年、元の村の近くにルマの町が新たに建設された。町の最初の住民は、近隣の集落から来たセルビア人と、ドイツから来たドイツ人であった。19世紀の初めには、クロアチア人ハンガリー人も定住した。1807年には、ティツァノヴァの乱英語版として知られるスレム農民の大規模な反乱がルマ領内で起こった。1848年革命の間、ルマはスレムにおけるセルビア民族運動の重要な拠点の一つであった。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ルマはクロアチア=スラヴォニア王国シルミア郡英語版の首府であった。1910年の国勢調査国勢調査によると、ルマの自治体の人口は49,138人を数え、そのうち22,956人がセルビア語話者、15,529人がドイツ語話者、5,746人がハンガリー語話者、3,730人がクロアチア語話者であった[7]

ハプスブルク君主国の崩壊後、1918年11月24日にルマのシルミア議会はシルミアをセルビア王国に統合することを宣言した。1933年にルマは公式に都市の地位を得た。第二次世界大戦が始まるとルマはヴォイヴォディナドイツ人マイノリティの中心の1つとなった[6]。 1942年の枢軸国占領時、地元の民族ドイツ人志願兵により Ruma ES der DM で知られるナチス・ドイツドイツ国防軍の部隊が形成された[8]

多くの非ドイツ系市民は反ファシズム運動に参加し、枢軸国の占領に対して闘争した[9]。1944年、戦争の結末として多くの民族ドイツ人たちはパルチザン赤軍を前にルマから逃亡した[9]。戦後、かつてのユーゴスラビアの各地からの移住者がこの地域に移り住んだ。1990年代には約1万人の内戦難民がクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボからルマに逃れてきた。1949年には、ユーゴスラビア空軍が支援するパイロットスクールやパラシュート・インストラクター学校、飛行機製造学校がルマに開設され、1950年には国際アエロミーティングが街の中心部で開催された。

地区

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ルマ基礎自治体にはルマ市と以下の村落が含まれる。

  • Buđanovci
  • Vitojevci
  • Voganj
  • Grabovci
  • Dobrinci
  • Donji Petrovci
  • Žarkovac, Ruma
  • Klenak
  • Kraljevci
  • Mali Radinci
  • Nikinci
  • Pavlovci
  • Platičevo
  • Putinci
  • Stejanovci
  • Hrtkovci

著名人

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姉妹都市

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脚注・典拠

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  1. ^ Municipalities of Serbia, 2006". Statistical Office of Serbia. Retrieved 2010-11-28.
  2. ^ 2011 Census of Population, Households and Dwellings in the Republic of Serbia: Comparative Overview of the Number of Population in 1948, 1953, 1961, 1971, 1981, 1991, 2002 and 2011, Data by settlements". Statistical Office of Republic Of Serbia, Belgrade. 2014. ISBN 978-86-6161-109-4. Retrieved 2014-06-27.
  3. ^ CEEOL BALCANICA , Issue XXXVI /2005”. Ceeol.com. 2013年10月15日閲覧。
  4. ^ http://www.balkaninstitut.com/pdf/izdanja/balcanica/balcanica%2035/01%20Tasic.pdf
  5. ^ http://www.balkaninstitut.com/pdf/izdanja/balcanica/Balcanica_XXXVI_2005.pdf
  6. ^ a b History”. Ruma.rs (1944年10月27日). 2013年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年10月15日閲覧。
  7. ^ Homepage - www.talmamedia.com
  8. ^ Axis History”. Axis History. 2013年10月15日閲覧。
  9. ^ a b Opština Ruma - Istorija” (Serbian). Internet Media (2006年). 2010年11月14日閲覧。

外部リンク

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