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セレウコス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セレウコス朝
Αυτοκρατορία των Σελευκιδών
マケドニア王国
アルゲアス朝
前312年 - 前63年 共和政ローマ
パルティア
バクトリア王国
シリアの国旗 シリアの国章
ヴェルギナの太陽(馬、象、および錨がシンボルとされた)
シリアの位置
セレウコス朝の最大領土
公用語 ギリシャ語
首都 アンティオキア
バシレウス
前312年 - 前281年 セレウコス1世(初代)
前223年 - 前187年アンティオコス3世(第6代)
前69年 - 前63年アンティオコス13世(最後)
変遷
成立 前312年
滅亡前63年
通貨ドラクマ

セレウコス朝(セレウコスちょう、古代ギリシア語: Αυτοκρατορία των Σελευκιδών紀元前312年 - 紀元前63年)は、アレクサンドロス大王ディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルシリアバビロニアアナトリアイラン高原バクトリアに跨る地域に築いた王国。プトレマイオス朝アンティゴノス朝と共に、いわゆるヘレニズム国家の1つとされる。セレウコス朝シリアシリア王国とも。

歴史

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ディアドコイ戦争

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紀元前3世紀ヘレニズム諸国
  セレウコス朝
イランの歴史
イランの歴史
イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

セレウコス朝の始祖セレウコス1世(在位:前305年 - 前281年)はマケドニアピリッポス2世(在位:前359年-前336年)の部将アンティオコス英語版とその妻ラオディケ英語版の間に生まれた[1]。前334年にマケドニア王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年 - 前323年)がハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を打倒すべく東方遠征を開始すると、そのヘタイロイ(幕僚)の一人として参加した[1]

アレクサンドロス3世は前333年11月のイッソスの戦い、前331年6月のガウガメラの戦いでハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世、在位:前336年-前330年)が率いる軍勢を打ち破り、短期間のうちにその旧領を征服したが、前323年にバビロンで病死した[2]。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。彼らによる一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス古代ギリシア語: χιλίαρχος)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった[3]。他、メレアゲルレオンナトスアンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、ラゴスの子プトレマイオス(1世)らが有力な将軍として争った[4][3]。セレウコスはヒュパスピスタイ(楯持ち隊)の指揮官という地位にあったが、当初はまだ役割は限定的なものであった[4]。将軍たちがアレクサンドロス3世の領土分配を話し合ったバビロン会議の際、アンティパトロスが本国マケドニアの守護を任され、アンティゴノスがフリュギアアナトリアを、カルディアのエウメネスカッパドキアパフラゴニアを、ナウクラティスのクレオメネスエジプトの支配権をそれぞれ承認された。このうちクレオメネスは間もなくプトレマイオスによって排除された[5][3]。一方、セレウコスは領地を与えられることはなかったが、騎兵隊の指揮権を掌握した[3]

その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保し、さらにディアドコイたちに対する優位を確立すべく、アレクサンドロス3世の姉妹クレオパトラ英語版との結婚を画策した。だが、そのために既に進んでいたアンティパトロスの娘との縁談を破断としなければならず、アンティパトロスとの関係を悪化させた上、他のディアドコイからの警戒を買った[6]。自分に対する敵意の高まりを感じ取ったペルディッカスは自分に忠実だったカルディアのエウメネスに小アジアの本領を任せ、前321年[注釈 1]ディアドコイの中でも孤立した立場にあったエジプトの支配者プトレマイオスを討つべくエジプトに進軍した[7][6]。セレウコスはペルディッカスの配下としてこの遠征に従軍した。しかし、ペルディッカスはエジプトのナイル川の渡河しようとした際の不手際で失敗し多くの死者を出した[6]。この結果セレウコスは他の将軍と共にペルディッカスを見限り彼を暗殺した[8][7]。恐らくセレウコスはエジプトから撤退するペルディッカスの軍団において指導的役割を果たしていたであろう[9]。その後、アンティパトロスの主導でシリアのトリパラデイソスで再度領土分割の会議が持たれ、セレウコスはバビロニアを手に入れた[10]

前319年にアンティパトロスが死亡すると、その後継者ポリュペルコンとアンティゴノスが対立した。ポリュペルコンを支持したカルディアのエウメネスはセレウコスに帰順を要求したが、セレウコスがこれを拒否すると前318年10月にバビロンを占領した[11]。セレウコスは反撃を試みたが失敗し、エウメネスがさらにメディアに向けて進発すると、前317年のはじめに北部バビロニアに進出していたアンティゴノスの助力を得て二度にわたるバビロニア攻撃を行い支配地を奪還し、翌年にはアンティゴノスのエウメネス討伐軍に合流してエウメネスを打倒した[11][12]。バビロニアを支配するセレウコス1世は、この戦いを通じてディアドコイたちの中で卓越した勢力を持つようになったアンティゴノス1世に疎まれるようになった。前315年にセレウコス1世はバビロニアから追い出され、エジプトのプトレマイオスの下に身を寄せた[13]

プトレマイオスはカッサンドロスリュシマコスらと対アンティゴノスの同盟を結ぶと共に、アンティゴノスの勢力をかく乱するためセレウコスに1000人足らずの兵士を与えてバビロニアに送り出した[14]。セレウコスは移動中の住民たちを糾合することに成功し、前311年春にバビロン市を奪還して周辺の支配権を取り戻すことに成功した[14]。セレウコス朝はセレウコスのバビロン帰還を統治の始まりと見なしており、この出来事はセレウコス暦の起点となった[14]

プトレマイオスとの戦いが順調に行かず、セレウコスの排除にも失敗して苦境に陥ったアンティゴノスは前311年にプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスらと互いの支配地を相互に承認しあう現状追認の協定を締結したが、この協定に加わっていなかったセレウコスはイラン高原方面での勢力拡張を目論んだ[15]。セレウコスは東方の諸属州の支配権を奪回しようとするアンティゴノスの行動を撃退し、イランの支配を確立した[15][16]。イラン高原よりさらに東におけるセレウコスの征服活動は、インドで勢力を拡張していたマウリヤ朝の建設者チャンドラグプタ1世に阻まれて順調に進まなかった。具体的な経過は詳らかではないものの、インドとの境界地帯での戦いは前303年頃、セレウコスがガンダーラゲドロシアアラコシアに至る広大な地域がマウリヤ朝の支配下に入ることを承認するという結果に終わった[17][18]

この最中、前306年にアンティゴノスが息子のデメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)ともども王を称するようになると、翌前305年にはセレウコスも後に続いて王を名乗り、またプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスも同じく王を名乗った[19]。アンティゴノス1世とデメトリオス1世がギリシアとアナトリアで勢力を拡張すると、前301年にセレウコス1世はリュシマコスと共にアンティゴノス1世を攻撃すべく進軍し、春にイプソス近郊のシュンナダで決戦が行われた(イプソスの戦い[20]。この戦いでアンティゴノス1世を敗死させたセレウコス1世は、前281年にはリュシマコスの領土を狙ってアナトリア方面に軍を進め、リュディアの旧都サルディス西方のコルペディオンの戦いでリュシマコスを破った。この結果、アレクサンドロス3世の帝国のアジア部分のほぼ全域がセレウコス朝の支配するところとなった[21]

継承

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同年、セレウコス1世はさらにマケドニア本国を目指して進軍したが、自らの下に亡命していたプトレマイオス・ケラウノス(エジプト王プトレマイオス1世の息子)によって暗殺された[21]。プトレマイオス・ケラウノスはその後リュシマコスの仇を討ったとして、リュシマコスの遺産獲得に進むこととなる[22]

セレウコス1世が死亡する前、息子のアンティオコス1世(ソテル)は王の称号とともにセレウコス朝の東方領土(上部サトラペイア)の支配を委ねられていた[23]。父セレウコス1世と息子アンティオコス1世による分担統治の実態はよくわかっておらず、文献史料においてοι άνω τόποιと呼ばれる、また現存する唯一の碑文史料においてοι άνω σατραπείαιと呼ばれる上部サトラペイア地域の正確な範囲はわかっていない[24]。古代の歴史学者の記録はユーフラテス川の東の全てがアンティオコス1世の所管で、帝国の中枢部であったバビロニアをも含んでいたとするアッピアノスや、ティグリス川以東、主としてイラン高原地域をその領域として列挙するシケリアのディオドロスなどがある[24]。いずれにせよ、セレウコス1世の存命中、アンティオコス1世はメディアバクトリアで多くの時を費やしていた[25]

281年のセレウコス1世の死を受けて帝国を継承したアンティオコス1世は、ただちに父の本拠地であったシリアでの反乱に直面した[26]。加えて、アナトリアへのガリア人ケルト人)の侵攻(前278年-前275年)、さらには南部シリア(コイレ・シリアをめぐるプトレマイオス朝との戦争(第1次シリア戦争:前274年-前271年頃)の勃発が重なり、アンティオコス1世の治世初期はこれら西方での諸紛争に忙殺されることとなった[23][26]。それでも、アンティオコス1世は父親と同じように自分の息子セレウコスを上部サトラペイアの支配者として共同統治者に任命し、少なくとも治世前半には東方領土はまだセレウコス朝の王権に十分服しており、第1次シリア戦争においては銀や象などがバビロン、さらにはバクトリアからシリアへと送付されている[26]。しかし、このセレウコスは前267年に反逆の嫌疑により処刑され、代わって別の息子アンティオコス(2世)が上部サトラペイアの支配者に任命された[26]。その後、アンティオコス1世はアナトリア方面におけるペルガモンへの遠征で敗死し、アンティオコス2世が跡を継いだ。

東部領土の喪失

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セレウコス朝の国力と関心が西方に集中している間、そのための負担のみを求められた東部領土の有力者たちは離反の動きを強めた。紀元前250年頃、ディオドトス1世は支配地域のバクトリアを独立させてグレコ・バクトリア王国を建て、さらにアンドラゴラスが支配地域のパルティアナを独立させてパルティアを建てた。中央アジア方面におけるセレウコス朝の領土は大幅に縮小した。

さらに紀元前246年に即位したセレウコス2世カリニコスは、プトレマイオス朝との戦争に加え、兄弟であるアンティオコス・ヒエラクスの反乱に直面し、セレウコス朝の領土縮小に拍車をかけた。

アンティオコス3世の遠征とローマ

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紀元前223年アンティオコス3世が即位すると、セレウコス朝は再び拡大期に入った。アンティオコス3世は即位するとすぐ国内の反乱勢力の多くを鎮圧した。プトレマイオス朝と戦った第4次シリア戦争ドイツ語版では紀元前217年ラフィアの戦いでは一敗地にまみれたものの、紀元前212年に開始した東方遠征では著しい成功を収めた。まずパルティアへ向かったアンティオコス3世は、アンドラゴラスの領土を征服して同地に王朝を築いていたアルサケス朝アルサケス2世を破った。続いてバクトリアへ向かい、アリエ川の戦いでバクトリア王エウテュデモス1世の軍勢を破り、さらにバクトラを2年間にわたって包囲して有利な講和を結び、セレウコス朝の東方における影響力は飛躍的に増大した。東方遠征から戻ったアンティオコス3世は再びプトレマイオス朝と戦って勝利した(第5次シリア戦争ドイツ語版)。

これらの業績によって彼は大王と呼ばれる。しかし、間もなく共和政ローマと対立しローマ・シリア戦争が勃発するが、マグネシアの戦いで決戦に及んだが大敗に終わり、アパメイアの和約で領土割譲と膨大な賠償金を課せられるに到り、セレウコス朝の拡大は再び終了した。アンティオコス3世の息子セレウコス4世フィロパトルアンティオコス4世エピファネスの治世を通じて、ローマのセレウコス朝に対する影響力は増大を続け、反比例してセレウコス朝の権威は失墜した。

衰退

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紀元前89年頃
  セレウコス朝
  ローマ属国
  アトロパテネ王国(メディア地域)
  ハスモン朝(ユダヤ)
  ポントス属国

アンティオコス3世がローマとの戦いに敗れると、すぐにパルティアはセレウコス朝から離反した。アンティオコス4世はパルティアに遠征をして勢力回復を図るも死去し、パルティアはフラーテス1世ミトリダテス1世の下で勢力を拡大し、グレコ・バクトリアを圧迫するとともに紀元前146年にはメディア地方を併合してセレウコス朝の中核地帯に迫った。また西部でも紀元前142年にはユダヤ人の独立にも直面した(マカバイ戦争)。

パルティアの攻撃によって紀元前141年にはセレウキアが、紀元前140年にはスサが陥落し、メソポタミアがパルティアの支配下に置かれるに到った。反撃に出たデメトリオス2世ニカトルは敗れて捕縛され、続いてパルティアと戦ったアンティオコス7世シデテスはパルティア支配に反発するギリシア人らを糾合してパルティアを攻撃し、メソポタミアとメディアをパルティアから奪回し、パルティア本国にまで攻め上ったが、そこで現地人の反乱に直面し戦死してしまった。

これによって、彼が回復した領土も再びパルティアの支配下に収まり、セレウコス朝は首都アンティオキア周辺のわずかな領域を支配するに過ぎなくなった。

滅亡

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紀元前1世紀にはいると、セレウコス朝が政治的に積極的な役割を果たすことは無くなった。紀元前83年、セレウコス朝はアルメニアティグラネス2世の支配下に入った。しかし、ティグラネスがローマの仇敵であったポントスミトリダテス6世と同盟関係にあったため、ローマはアルメニアを攻撃してティグラネスを降伏させた。その後シリアに進駐したローマの司令官グナエウス・ポンペイウスはシリアをシリア属州とし、セレウコス朝の歴史はここに終了した。

統治

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初代セレウコス1世は、息子のアンティオコス1世にユーフラテス川より東の広大な地域(当時は上部サトラペイアと呼ばれた)の統治を任せた。アンティオコス1世はティグリス河畔のセレウキアを拠点にこの領土を治めた。この事実はセレウコス1世による支配の力点が圧倒的に西方、シリアに置かれていたことを示す。アンティオコス1世による東方領土統治の詳細はよくわかっていない。セレウコス1世の政敵であったアンティゴノス1世は、かつてメディアの総督(サトラップ)であったニカノルに上部サトラペイアの統治を任せたといわれており、アンティオコス1世の地位はこれを継承したものであると推定されている。この王族による東西領土の分割統治は、その後も断続的に続いた。

都市建設

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ドゥラ・エウロポス遺跡にある城壁跡

セレウコス朝は征服した領土内で活発な都市建設を行った。これはヘレニズム時代に顕著な特徴であり、とりわけセレウコス1世とアンティオコス1世は熱心に都市建設を実施したことが知られている。この両者によって建設された都市は知られているだけで40以上にのぼり、実際にはさらに多かったと考えられている。

こうした都市建設を熱心に進めた理由は、歩兵を主力としたセレウコス朝にとって連続した都市網の整備が重要であったことや、支配の確立にあたって領内にギリシア人マケドニア人を定着させる必要があったことである。ただし、多くの場合これらの新都市は既存の都市を拡張、または再整備したものであった。たとえば北メソポタミアに建設されたアンティオキア(ミュグドニアのアンティオキア)は旧ニシビスを基盤として拡張された計画都市であった。

セレウコス朝の都市建設政策の中でもとりわけ重要視されたのはセレウコス朝の中核地域であったシリアであった。この地方には、首都アンティオキア(オロンテス河畔のアンティオキア)、軍事の中心となったアパメア(オロンテス河畔のアパメア)、港湾都市セレウキア(ピエリアのセレウキア)、そしてラオディキア(海に臨むラオディキア)など多数の計画都市が建設された。上に上げた4都市は、四大都市とよばれ、シリアに建設された都市の中でもとりわけ重要視された。

都市建設の中心をなしたのは、ギリシア的なポリスの建設よりはカトイキアと呼ばれた軍事植民地の建設であった。移住する多くのギリシア人たちにとって、自分たちの居住すべき土地は当然ポリスでなくてはならなかった。しかし、大規模都市建設は負担が大きく、また領土内の安定を重要視したセレウコス朝は将来のポリスへの昇格を前提としつつ、より簡易なカトイキアの建設を多数行った。カトイキアもまた、しばしば既存の都市を利用して建設されたといわれている。

カトイキアの中でも最も有名なのはドゥラ・エウロポスである。この計画都市は西の中心である首都アンティオキアと、東の中心であるティグリス河畔のセレウキアを結ぶ「王の道」の中間に、警備、および補給拠点として建設された。この都市についてセレウコス朝時代のことはほとんど知られていないが、その立地条件はカトイキアの性格の一端を示す。

マケドニア・ギリシア人と現地人

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マケドニア人とギリシア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)の移住はアケメネス朝時代から散発的に始まっていたが、アレクサンドロスの征服とセレウコス朝の時代にはいよいよ本格的になった。ギリシア人殖民団とそれ以前から各地に住んでいた人々は、かなり明確に区別されていた。ティグリス河畔のセレウキアではギリシア人とバビロニア人は別個の都市を形成しており、互いに対立していたと記録されている。他の多くの地域でも、ギリシア人の政治共同体とは別に現地人の政治共同体が形成されている例が多かった。

近現代の研究者たちによって、セレウコス朝は基本的にはマケドニア人の王朝であると見なされていたし、事実セレウコス朝の主導権を握ったのはマケドニア人(ギリシア人)であった。政治的理由から対等の立場を認められた現地人の共同体もあった(例えばストラニキアにおけるカリア人など)ものの、いくつかの都市においては明らかに現地人が隷属民として扱われていたし、バビロニア人など比較的強力な集団もギリシア人に対して劣勢であったとされている。ただし、セレウコス朝領内のギリシア人人口は全体から見れば少数であり、上述した都市建設政策によってギリシア人が詰める城砦網を造ることで、数の不足を補い支配の安定を図る伝統的政策を採ったと思われる(ただし当時の都市についての研究は万全から程遠く、推論の域を出るものではない)。

現実問題としてはマケドニアによる外来王朝が、圧倒的多数の現地住民の意向を完全に無視して行動するのは不可能であったし、セレウコス朝国家自体も現地人の関与を受けないわけにはいかなかった。軍の中級以下の指揮官に各地の現地出身の将軍が用いられた例は少なくないし、一般兵員においてはギリシア人だけでは到底数が足りなかった。アンティオコス3世が編成したファランクスの構成員の過半数がオリエント各地の傭兵によって占められていたという研究もある。しかし、高級官吏や軍指揮官の地位に非マケドニア人(ギリシア人)が任用されることはやはり稀なことであった。

年表

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歴代君主

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  1. セレウコス1世ニカトル前312年 - 前281年
  2. アンティオコス1世ソテル(前281年 - 前261年
  3. アンティオコス2世テオス(前261年 - 前246年
  4. セレウコス2世カリニコス(前246年 - 前226年
  5. セレウコス3世ケラウノス(前226年 - 前223年
  6. アンティオコス3世(前223年 - 前187年
  7. セレウコス4世フィロパトル(前187年 - 前175年
  8. アンティオコス4世エピファネス(前175年 - 前164年
  9. アンティオコス5世エウパトル(前164年 - 前162年
  10. デメトリオス1世ソテル(前162年 - 前150年
  11. アレクサンドロス1世バラス(前150年 - 前145年
  12. デメトリオス2世ニカトル(前145年 - 前138年) - 一時パルティアの捕虜 
  13. アンティオコス7世シデテス前138年 - 前129年
  14. デメトリオス2世ニカトル(前129年 - 前126年)、復位
  15. クレオパトラ・テア前125年 - 前121年) - アレクサンドロス1世、デメトリオス2世、アンティオコス7世の妃
  16. アンティオコス8世グリュポス(前125年 - 前96年) 
  17. セレウコス6世エピファネス・ニカトル(前96年 - 前95年
  18. アンティオコス10世エウセベス(前95年 - 前92年または前83年)
  19. ティグラネス1世(前83年 - 前69年)、アルメニア王
  20. アンティオコス13世アジアティクス(前69年 - 前63年)

系図

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アパメー1世
 
 
 
 
セレウコス1世
 
 
 
 
 
 
 
ストラトニケ
(マケドニア王デメトリオス1世娘)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アカイオス
 
フィラ
 
アンティゴノス2世
マケドニア王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンティオコス1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
デメトリオス2世
マケドニア王
 
ストラトニケ
 
ベレニケ
(エジプト王プトレマイオス2世娘)
 
アンティオコス2世
 
ラオディケ1世
 
アンドロマコス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンティオコス・ヒエラクス
 
ストラトニケ
 
アリアラテス3世
カッパドキア王
 
ラオディケ
 
ミトリダテス2世
ポントス王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セレウコス2世
 
 
 
ラオディケ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アカイオス
 
 
 
 
 
ラオディケ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セレウコス3世
 
 
 
アンティオコス3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ラオディケ3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンティオコス
 
 
 
 
 
 
ラオディケ4世
 
 
 
 
 
 
クレオパトラ1世
 
プトレマイオス5世
エジプト王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セレウコス4世
 
 
 
 
 
 
 
アンティオコス4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンティオコス
 
ペルセウス
マケドニア王
 
ラオディケ5世
 
デメトリオス1世
 
アンティオコス5世
 
 
 
プトレマイオス6世
エジプト王
 
プトレマイオス8世
エジプト王
 
 
 
 
 
 
ラオディケ6世
 
ミトリダテス5世
ポントス王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
デメトリオス2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クレオパトラ・テア
 
 
 
 
 
 
アレクサンドロス1世
 
 
 
ミトリダテス6世
ポントス王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンティオコス7世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンティオコス6世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セレウコス5世
 
クレオパトラ・トリュファイナ
 
アンティオコス8世
 
クレオパトラ・セレネ1世
 
アンティオコス9世
 
クレオパトラ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セレウコス6世
 
アンティオコス11世
 
フィリッポス1世
 
デメトリオス3世
 
アンティオコス12世
 
 
 
 
 
 
アンティオコス10世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリッポス2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンティオコス13世
 

参考文献

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  • J. Bing; J. Sievers (1986年12月). "Antiochus". Encyclopaedia Iranica.
  • デーヴィッド・エングルス(David Engels) (2017-07). Benefactors, Kings, Rulers. Studies on The Seleukid Empire Between East and West. Peeters Pub & Booksellers. ISBN 978-90-4293327-9 (ペーパーバック版、原著:1990年)
  • 松原國師『西洋古典学事典』京都大学出版会、2010年6月。ISBN 978-4-87698-925-6 
  • 小川英雄「地中海アジアの隷属」『オリエント世界の発展』中央公論社〈世界の歴史4〉、1997年7月、159-192頁。ISBN 978-4-12-403404-2 
  • フランソワ・シャムー 著、桐村泰次 訳『ヘレニズム文明』諭創社、2011年3月。ISBN 978-4-8460-0840-6 
  • フランク・ウィリアム・ウォールバンク 著、小河陽 訳『ヘレニズム世界』教文館、1988年1月。ISBN 978-4-7642-6606-3 
  • ジョン・D・グレンジャー(John D. Grainger) (2015-5). Seleukos Nikator Constructing a Hellenistic Kingdom. Routledge Revivals. Routledge. ISBN 978-0-41574401-0 (ペーパーバック版、原著:1990年)
  • 『イランの古代文化』 (ロマン・ギルシュマン 岡崎敬他2名訳 平凡社 1970年
  • 『オリエント史講座3 ―渦巻く諸宗教―』 (前嶋信次他2名 学生社 1982年
  • 『ヘレニズムとオリエント ―歴史の中の文化変容―』 (大戸千之 ミネルヴァ書房 1993年
  • 『世界の歴史5 ギリシアとローマ』 (桜井万里子本村凌二 中央公論新社 1997年)
  • 岩波講座 世界歴史 第2巻 オリエント世界』(前川和也他10名 岩波書店 1998年
  • 『アイハヌム 2003』 (加藤九祚 東海大学出版会 2003年
  • 『NHKスペシャル 文明の道 2 ヘレニズムと仏教』 (前田耕作NHK出版 2003年)

関連項目

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが[7]、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。

出典

[編集]
  1. ^ a b 西洋古典学事典, pp. 703-705 「セレウコス」の項目より
  2. ^ 小川 1997, pp. 182-190
  3. ^ a b c d シャムー 2011, pp. 59-60
  4. ^ a b ウォールバンク 1988, p. 62
  5. ^ ウォールバンク 1988, p. 138
  6. ^ a b c シャムー 2011, p. 64
  7. ^ a b c ウォールバンク 1988, p. 66
  8. ^ シャムー 2011, p. 65
  9. ^ Grainger 2015, p. 25
  10. ^ 小川 1997, p. 191
  11. ^ a b マッキーン 1976, p. 294
  12. ^ シャムー 2011, p. 71
  13. ^ ウォールバンク 1988, p. 68
  14. ^ a b c シャムー 2011, p. 73
  15. ^ a b シャムー 2011, p. 74
  16. ^ ウォールバンク 1988, p. 74
  17. ^ シャムー 2011, p. 75
  18. ^ ウォールバンク 1988, p. 75
  19. ^ シャムー 2011, p. 76
  20. ^ シャムー 2011, p. 81
  21. ^ a b シャムー 2011, p. 93
  22. ^ シャムー 2011, p. 94
  23. ^ a b シャムー 2011, p. 110
  24. ^ a b Engels 2017, p. 116
  25. ^ Engels 2017, p. 117
  26. ^ a b c d Bing, Sievers 1986