サマリア
サマリア(Samaria)は、パレスチナ中央部の地域名で、北にガリラヤ、南にユダヤが接する。おおむねイスラエルの中央地区とテルアビブ地区、およびヨルダン川西岸地区北部に相当する。
ヘブライ語ではショムロン(שומרון、Shomron)、アラビア語ではアッサマラー(السامرة、as-Sāmarah)と呼ぶが、現在のアラビア語では別名のサバスティーヤ(Sabastīya)で呼ばれることが多い。
呼称
[編集]聖書の『列王記』によると、サマリアという名前は昔この辺の土地を持っていた地主「ショメル(Shemer セメルとも)」の名前が起源とされる(日本語読みに直すと分かりにくいが、原語では「ショメル」「ショムロン」で似た音であることが分かる)。その後、新しい都を作るためこの地にあった丘を購入した北イスラエル王[1]のオムリが前の持ち主であったショメルの名前を都市名に使うようになり[2]、その後この辺り周辺が北イスラエル王国の中心地となったため、都市に限らずにこのあたりの地域やもっと広く北イスラエル王国そのものを指すようになった[3]。
その後、紀元前1世紀に親ローマ的だったヘロデ王により都市が整備された際に、アウグストゥスのギリシャ語訳セバストスに因み「セバステ (Σεβαστη 尊敬すべし) 」と改名され、現在は都市が「サバスティーヤ」と呼ばれるのはこちらが語源である。
現在、西岸地区北部をサマリアと呼ぶことはシオニストに好まれ、彼らはヨルダン川西岸地区をユダヤ・サマリアと呼ぶ。
歴史
[編集]上述のように当初この地方は北イスラエル王国の中心部であったが、紀元前722年北イスラエル王国がアッシリアにより滅ぼされると指導者たちはアッシリアに連れていかれ(アッシリア捕囚)、代わりにバビロン、クテ、アワ、ハマテ、セファルワイムから[4]アッシリア帝国からの移住者が入植してきて、アッシリアによりサマリア県が置かれた。
(サマリア県はアッシリアに続くバビロニア時代にも存続し、紀元前586年の南ユダ王国滅亡(バビロン捕囚)後は、その旧領土、すなわちエルサレム周辺も、一時的にサマリア県に併合された)
残された住民とアッシリアからの移住者でサマリア県(狭義)に住む人々は、後に「サマリア人」と呼ばれるようになる。
その後、この地の支配者はアッシリアからバビロニア、そして第3の支配者であるペルシャ帝国によって紀元前537年捕囚者の帰還許可が出始め、その後しばらくしてペルシャ王の給仕長だったネヘミヤが戻ってきた頃、サマリアの総督に「ホロン人[5]のサンバラテ(サンバラト)」なる人物がついており[6]、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第XI巻8章2節[7]や後にエルサレム近郊で見つかったパピルスで紀元前4世紀頃にも同名の人物がサマリアの有力者として出てくる[8]ことから、彼の一族が代々サマリア総督を務めていた可能性が高いとされる[9]。
紀元前4世紀後半のアレクサンドロス大王の時代にサマリアの住人がアレクサンドロス軍の指揮官の一人アンドロマコスを暗殺する事件が起こり、これを知ったアレクサンドロスは紀元前331年犯人らを処罰してマケドニア人をサマリアの街に入植させ、これによりサマリアは内陸部でのヘレニズム文化中心地のひとつとなっており、先住民のサマリア人は近隣の都市シケムを拠点とするようになっていた。
しかし、サマリアの街は戦略上重要な拠点であったためディアドコイ戦争中の紀元前312年、プトレマイオス1世がサマリアを含むコイレ・シリア地方から撤退した際に破壊され、その15年ほど後にもデメトリオス1世に攻め込まれた際に破壊されるなど、幾度も戦火の被害に遭っている(破壊されたのかは不明だが、第4次・第5次シリア戦争の両方でもアンティオコス3世にサマリアが占領されたことがある)。
その後サマリアの名前が一時的に記録から出てこなくなるが、紀元前2世紀終わりに支配者であったセレウコス朝の弱体化で独立したユダヤ(ハスモン朝)がサマリアの街やシケムといったサマリア地方を制圧し、紀元前128年と紀元前107年にヨハネ・ヒルカノス1世の侵攻を受け、特に二度目の時は1年近く包囲されて破壊され放置された。
それから40年以上たった紀元前63年にグナエウス・ポンペイウスがハスモン朝の内戦に介入して攻め込み、結果的にサマリア地方がハスモン朝ユダヤ王国から外されてローマのシリア属州に組み込まれ、シリア総督のアウルス・ガビニウスの復興事業でサマリアの街は再建されたが、帝政時代になるとアウグストゥスはユダヤの王ヘロデにサマリア地方を与えた。ヘロデはこの時まで往時の繁栄を取り戻すことができなかったサマリアの街に除隊兵と周辺の住民からなる6000人を入植・定住させ、防衛設備などを整えてかなりの規模で拡大し、自分にこれを与えてくれたアウグストゥスに捧げる神殿を築くと、この再建された都市を彼をたたえて「セバステ」と改名した(紀元前25年ごろ)。
ヘロデの死後、サマリア地方は彼の息子のアルケラオスの手に渡ったが、彼が失策をしたためローマは彼を追放し、紀元6年ここを南方の狭義のユダヤ地方とイドメア地方と共にユダヤ属州にまとめられアグリッパ1世の統治下(40-44年)の一時的な期間を除き、ユダヤ総督[10]の管理下に置かれていた。
これ以後はセプティミウス・セウェルス皇帝の時代にセバステに植民地が築かれた記録が残っているが、ネアポリスが繁栄していく傍らで重要性が低下してエウセビオスから「小さな都市」と呼ばれるまでになっていた。[11]。
出典
[編集]- ^ 以後「北イスラエル」としてある部分は原文では「イスラエル」のみ。詳しくは「イスラエル王国」のページを参照。
- ^ 『列王記』上16:24。
- ^ 例として『列王記』上18:2に「サマリアでは飢饉がひどかった」とあるが、この時特に籠城戦をしていたわけではないので「サマリアの街だけ食糧不足」の意味ではなく王国全土の意味でサマリアを使っていると分かる。
- ^ 列王記下 17:24
- ^ 「ホロン」がどこを指すのか不明、有力なのがエフライム地方「ベト・ホロン」かモアブ地方「ホロナイム」のどちらかの都市。
- ^ 『ネヘミヤ記』第3章34節、彼がサマリアの軍を率いている記述がある。
- ^ フラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌3 旧約時代編[VIII][XI][XI][XI]』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08533-5、P391以後。
- ^ ヨセフスの言う「サンバラト」とエルサレムのパピルスに書かれていた「サンバラト」は別人。
前者はアレクサンドロスがアジアに攻め込んできてペルシャ王ダリヨスが敗れた際(紀元前333年)に、ダリヨスを見限ってアレクサンドロスに降伏した最後のサマリア総督でガザ包囲戦終了の2か月後に死去。
エルサレムのパピルス(執筆年代は紀元前4世紀中盤付近)に書かれていたのは「現サマリア総督の父」で総督本人ではない。
ちなみに『ネヘミヤ記』は、ネヘミヤがエルサレムに向かうと決意したのが「アルタクセルクセス(1世)の治世20年目(西暦では紀元前445年ごろになる)」と第2章1節にあるのでこれらの100年以上前の話。 - ^ E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽 安達かおり 馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻P29
- ^ もしくは「ユダヤ長官」とも訳される、ユダヤ属州は規模が小さいため、シリア属州などの大規模な属州総督(「レークトル・プローウィンキアエ(Rector Provinciae)」)と違い「プラエフェクトゥス(Praefectus)」と呼ばれる役人がレークトル・プローウィンキアエの配下として活動していた。
- ^ E・シェーラー『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』、古川陽 安達かおり 馬場幸栄訳、株式会社教文館、2014年、第3巻P54・170-172
関連項目
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