銕橋
銕橋(くろがねばし)は、長崎市の中島川に架かる橋。国道324号の一部。 河口から数えて6番目の橋で、「てつばし」の愛称で親しまれている[1]。
概要
[編集]長崎一の繁華街浜町アーケードの西側入り口に位置し、同市の浜町と築町を結んでいる。現在の橋は1990年に架け替えられた3代目で、欄干には「鉄橋」の銘が刻まれている。
歴史
[編集]「初代」銕橋
[編集]1868年(慶応4年)に架けられた、日本初の鉄橋とされている[1][2][3][4]。
鉄橋架橋以前には、「大橋」や「第十五橋」と呼ばれた木造橋が架けられていたが、水害により幾度となく大破・流失していた。 1867年(慶応3年)の豪雨にて橋が大破し、有志らの協力を経て長崎製鉄所の鉄を使った頑丈な鉄橋として架け直されることになった。設計はオランダ人技師F.L.M.ホーゲル、工事は長崎製鉄所頭取の本木昌造が指揮を採り、総工費1万6千両をかけて建設された[1][5]。
慶応4年8月1日(9月8日より明治元年)に完成した[5]橋は全長約22メートル、幅員約6メートル、1径間の錬鉄製桁橋で[6]、橋面は板張りとされ、通行人の下駄の音がよく響いたと伝える[1]。完成後は長崎市の新名所となり、夏になると涼みにやって来る市民が少なくなかったとされる[1]。
1931年(昭和6年)に鉄筋コンクリート製の2代目に架け替えられた。
「3代目」鉄橋
[編集]1990年(平成2年)に架け替えられた[5]歩行者専用橋である(構造的には車両乗り入れ可能だが、車両を乗り入れる場合は許可申請を必要とする)。2代目と同じく鉄筋コンクリート製の橋であり、鉄製や鋼製ではないが、名前は初代の「鉄橋」を引き継いでいる。橋のそばに初代にあった石柱が残されているほか、橋の中央にはエミリオ・グレコ作の『水浴の女』の像がある。
橋の西側には長崎バス、県営バスの主要路線の経由および始発着地となる中央橋バス停や築町商店街、東側には長崎電気軌道 西浜町(アーケード前)電停、浜町アーケードなどがあり、交通の要所となっている。繁華街にも近いため、人通りは多い。長崎駅前と並んで、各種団体の街頭活動や路上アーティストらの表現の場にもなっており、国政選挙時には党首クラスが街頭演説を行う。
長崎ランタンフェスティバルの会場のひとつでもあり、祭りの期間中、橋は巨大オブジェやランタンで彩られる。
周辺施設
[編集]- 長崎県庁
- 浜市商店街
- メルカつきまち
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『ながさき自由研究所』長崎市広報広聴課、2013年4月、p. 29
- ^ 浅井建爾『道と路がわかる事典 : 読む・知る・愉しむ』(初版)日本実業出版社、2001年11月10日、221頁。ISBN 4-534-03315-X。
- ^ “鋼橋と鋼材のあゆみ”. 日本鉄鋼連盟ウェブサイト. 一般社団法人日本鉄鋼連盟. 2023年6月11日閲覧。 “くろがね橋 1868年(慶応4年):・日本で最初の鉄橋 ・橋長21.8 mの錬鉄桁橋 ・長崎に建設された”
- ^ 石井研堂「鉄橋の始」『明治事物起原』橋南堂、1908年1月、270頁 。「明治2年、本木昌造氏工事を督し、長崎港浜の町の大橋を架替へて鉄造と為せり。之を本邦鉄橋の始とす。(本木先生小伝)」 ※明治41年刊。初代
銕橋 を明治2年の建設としている。 - ^ a b c 岡林隆敏(長崎大学名誉教授) (2013年7月). “長崎県の土木遺産 第1回 長崎から始まる日本の橋の技術”. 1万人、土木・建築体験プロジェクト. 長崎県庁土木部建設企画課. 2023年6月11日閲覧。 ※記事個別pdfあり。初出は『DOVOC通信ながさき』No.20、2013年7月(長崎県土木部発行)。
- ^ 成瀬輝男(土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会) 編「「鉄(かね)の橋」の近代史」『鉄の橋百選 : 近代日本のランドマーク』東京堂出版、1994年9月、11頁。ISBN 4-490-20250-4 。「設計は長崎在住のオランダ人フォーゲル、工事の采配をふるったのは官営長崎造船所〔※原文ママ〕の頭取本木昌三〔※原文ママ〕、橋長22 m、幅員6.5 mの1径間の錬鉄製桁橋であった。」 ※記事個別pdfあり。
参考文献
[編集]- 長崎市広報広聴課『ながさき自由研究所』長崎市、2013年4月