道信
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道信 | |
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太建12年 - 永徽2年閏9月4日 (580年 - 651年10月23日) | |
諡号 | 大醫禅師 |
尊称 | 禅宗第四祖 |
生地 | 蘄州永寧県 |
宗派 | 禅宗 |
寺院 | 廬山大林寺、蘄州黄梅県双峰山 |
師 | 僧璨 |
弟子 | 弘忍 |
道信(どうしん)は、中国禅宗の四祖。諡は大醫禅師。蘄州黄梅県を中心として布教に励み、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築き、後の禅宗の母胎を形成する。
俗姓は司馬、『景徳伝灯録』など後世の資料では河内郡温県(河南省焦作市温県)の本貫(河内司馬氏)とされる。『続高僧伝』では出身地は不詳。
略歴
[編集]7歳で出家、仏門に入り沙弥十戒を授戒、沙弥(しゃみ、シュラーマネーラ)となる。その後、開皇12年(592年)、(数え年で)14歳の時に舒州皖公山(安徽省安慶市潜山市)に僧璨を訪ねる。一対一で九年間修禅した。
第二祖慧可は、開皇13年まで生きていたことから、慧可の入滅とほとんど 入れ替わるように師弟関係が始まり、マンツーマンの教導がなされたことがわかる。
その後、吉州の寺に身を置き受戒、時機成熟し以後、僧璨は道信に衣法(伝法の信を表す袈裟を与える事。禅では、師匠が弟子に対し、法を伝えた証に衣を授ける。伝衣は同時に伝法でもあることを意味する)。
その時読んだ、偈は次の如きものであったことを今に伝える。「花の種、これ田地 田畑にて 瑞々しい若花を大地より生ずる。もし、種を蒔く者がいなければ、花々に満ちていた大地は(これから)生じることもなく尽きてしまう(仏法もまた同じで、いまこそ 法をひろめなけえばならない)。」
その後、布教のため南嶽衡山へ行こうとしたが、道中で道俗に止められ、江州廬山の大林寺に入った。
武徳7年(624年)、蘄州黄梅県の双峰山に入り、その後30年間、衆徒を訓導し、永徽2年(651年)に72歳で没したとされる。
著作
[編集]- 『入道安心要方便法門』(『楞伽師資記』による)
伝記
[編集]関連項目
[編集]- 灯史 禅宗史書一覧
師:僧璨 | 禅宗 | 弟子:弘忍 |