越智通雄
越智通雄 おち みちお | |
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小渕第2次改造内閣での入閣時 | |
生年月日 | 1929年4月23日 |
出生地 | 日本 東京府 |
没年月日 | 2021年1月30日(91歳没) |
出身校 | 東京大学法学部法律学科[1] |
前職 |
大蔵省官僚 国務大臣秘書官 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 法学士(東京大学) |
子女 | 次男・越智隆雄(衆議院議員) |
親族 |
義父・福田赳夫(元内閣総理大臣、元衆議院議員) 義叔父・福田宏一(元参議院議員) 義弟・福田康夫(元内閣総理大臣、元衆議院議員) 甥・福田達夫(衆議院議員) |
第2代 金融再生委員会委員長 | |
内閣 | 小渕第2次改造内閣 |
在任期間 | 1999年10月5日 - 2000年2月25日 |
第41・44代 経済企画庁長官 | |
内閣 |
宇野内閣 第2次海部改造内閣 |
在任期間 |
1989年6月3日 - 1989年8月10日 1990年12月29日 - 1991年11月5日 |
選挙区 |
(旧東京3区→) 比例東京ブロック(東京6区) |
当選回数 | 8回 |
在任期間 |
1972年12月11日 - 1983年11月27日 1986年7月8日 - 2000年6月2日 |
越智 通雄(おち みちお、1929年4月23日 - 2021年1月30日) は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正三位。
衆議院議員(8期)、経済企画庁長官(第41・44代)、金融再生委員会委員長(第2代)を歴任。日韓親善協会中央会会長。
来歴・人物
[編集]東京生まれ。東京高師附属中(現・筑波大附属中・高)卒業。同期生に大川慶次郎、大島通義、岡野行秀、三浦公亮など。 旧制一高を経て、東京大学法学部法律学科を卒業後[1]、大蔵省に入省。ニューヨーク副領事、福田赳夫大蔵大臣秘書官、主計局調査課長などを経て退官。
1972年の第33回衆議院議員総選挙で賀屋興宣の後継として旧東京3区より出馬し当選(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・野田毅・深谷隆司など)。自民党では福田→安倍→三塚→森派に所属した。
選挙ポスターは、名前を仮名で書くと回文になることを意識したものになっていた。選挙の際、「上から読んでも『おちみちお』、下から読んでも『おちみちお』、中に「み」のあるおちみちおです」と選挙カーで連呼していた。中選挙区時代の選挙区は(世田谷区、目黒区の)東京3区で小坂徳三郎、小杉隆、栗本慎一郎などと争っていた。
1996年以降は小選挙区制の実施に伴い東京6区を地盤としたが、選挙区当選はなく1996年の第41回衆議院議員総選挙で比例復活したのみである。
銀行局銀行課長補佐、衆議院大蔵委員長、自民党金融問題調査会長、金融再生委員会委員長などを務め、銀行、保険、証券等の分野とパイプを持つことから金融族とされている[2][3]。
2021年1月30日13時5分、老衰のため死去[5][6]。91歳没。死没日をもって正三位に叙される[7]。
発言
[編集]金融再生委員会委員長在任中の2000年2月19日、栃木県の金融機関関係者への講演で、「検査の仕方がきついとかあったら、どんどん直接おっしゃってください。最大限考慮しますから」と発言。「手心発言」として論議を呼び、委員長辞任につながった[8]。その後、2000年6月の総選挙で落選した。
履歴
[編集]- 1929年 - 東京生まれ
- 1947年 - 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中・高)卒業
- 1950年 - 旧制第一高等学校卒業
- 1952年 - 東京大学法学部法律学科卒業
- 1952年 - 大蔵省入省、大臣官房秘書課配属
- 1954年 - 関東財務局管財部
- 1956年 - 名古屋国税局調査査察部
- 1957年 - 外務省在ニューヨーク日本総領事館副領事
- 1960年 - 主計局主計官補佐(労働係主査)
- 1962年 - 主計局主計官補佐(防衛第三係主査)
- 1963年 - 主計局総務課長補佐
- 1965年 - 大蔵大臣秘書官
- 1966年 - 銀行局銀行課長補佐
- 1968年 - 東京国税局間税部長、次いで大蔵大臣秘書官
- 1971年 - 主計局調査課長
- 1972年 - 衆議院議員に初当選
- 1983年 - 総選挙で落選
- 1989年 - 宇野内閣で、経済企画庁長官に就任。
- 1990年 - 第2次海部内閣で、再び経済企画庁長官に就任。
- 1999年10月5日 - 小渕第2次改造内閣で、金融再生委員会委員長に就任。
- 2000年2月25日 - 金融再生委員長を辞任。
- 2000年6月 - 第42回衆議院議員総選挙で惨敗(惜敗率59.435%)。
- 2003年4月27日 - 石井紘基刺殺事件に伴う補欠選挙に立候補するも落選。
- 2003年11月9日の衆議院議員選挙を前に、次男・隆雄に地盤を譲り、政界から引退した。
- 2021年1月30日 - 死去
家族・親族
[編集]外部リンク
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『東大人名録 第1部』1992年発行、1頁
- ^ 『選択 第26巻、第1〜12号』VIP出版、2000年発行、129頁
- ^ 『週刊エコノミスト 第78巻、第10〜18号』2000年発行、53頁
- ^ 「2000年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人、在日外国人の受章者一覧」『読売新聞』2000年11月3日朝刊
- ^ “越智通雄氏が死去 元金融再生委員長”. 日本経済新聞. (2021年2月1日) 2021年2月2日閲覧。
- ^ 元金融再生委員長の越智通雄氏死去 - 時事ドットコム 2021年2月1日
- ^ 『官報』第443号8頁 令和3年3月3日号
- ^ 辞任、更迭…志半ばで大臣の座を去った政治家たち
議会 | ||
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先代 松永光 |
衆議院予算委員長 1998年 |
次代 中山正暉 |
先代 池田行彦 |
衆議院大蔵委員長 1987年 - 1988年 |
次代 中村正三郎 |
公職 | ||
先代 柳沢伯夫 |
金融再生委員会委員長 第2代:1999年 - 2000年 |
次代 谷垣禎一 |
先代 相澤英之 愛野興一郎 |
経済企画庁長官 第44代:1990年 - 1991年 第41代:1989年 |
次代 野田毅 高原須美子 |