[go: up one dir, main page]

コンテンツにスキップ

赤坂長義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あかさか ながよし
赤坂 長義
生年月日 (1921-01-03) 1921年1月3日
没年月日 (1994-06-26) 1994年6月26日(73歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市神田区小川町(現在の東京都千代田区神田小川町)
死没地 日本の旗 日本
職業 脚本家映画監督テレビドラマ演出家著述家、大学教官
ジャンル 映画、テレビ映画、テレビ生放送ドラマ
活動期間 1950年 - 1994年
活動内容 1950年 新東宝でストーリーが採用される
1952年 井上梅次の助監督
1953年 脚本家デビュー
1955年 生放送テレビドラマの演出に抜擢
1957年 映画監督デビュー
1968年 テレビ界から離れる
主な作品
映画脚本
『十代の性典』
テレビドラマ
日真名氏飛び出す
ナショナルキッド
テンプレートを表示

赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年[1][2]1月3日 - 1994年6月26日)は、日本の脚本家映画監督テレビドラマ演出家著述家、大学教官である。日本映像学会会員。

人物・来歴

[編集]

1921年(大正10年)[1][2]1月3日東京府東京市神田区小川町(現在の東京都千代田区神田小川町)に、神保町の東京堂(現在の東京堂書店)支配人の子息として生まれる[3]

旧制・第一高等学校在学時の1940年(昭和15年)に、橋川文三と同級であり、橋川に保田與重郎の『後鳥羽院』等の著作を勧めている[3][4]。自らも詩作を行い、『歴程』同人であった[5]第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、同校を卒業して東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に進学した。

戦後1947年(昭和22年)に設立された映画会社・新東宝に入社、助監督を務める。1950年(昭和25年)、赤坂が執筆したストーリーが採用され、島耕二が『君と行くアメリカ航路』として映画化する。井上梅次らの助監督をつとめる傍ら、島が大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)で撮った『十代の性典』の脚本を書く。新東宝でも、井上や内川清一郎中川信夫らに脚本を提供する。

1955年(昭和30年)、ラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)が製作した生放送テレビドラマ『日真名氏飛び出す』の演出家に抜擢される。1957年(昭和32年)には、新東宝でも、『角帽と女子大三人娘』で映画監督としてデビューした。

1961年(昭和36年)5月には、新東宝が製作を停止し、同年8月末には倒産するが、赤坂は、東映製作のテレビ映画ナショナルキッド』の監督へと転進した。その後、1960年代にわたって、テレビ映画、テレビドラマの脚本を多く執筆するが、1968年(昭和43年)に監督したテレビ映画シリーズ『特別捜査本部』を最後に、テレビ界から離れる。

1980年(昭和55年)前後の時期、雑誌『映画芸術』に関わり、執筆する[6]。このころにはすでに多摩美術大学で教鞭を執っていた。1982年(昭和57年)には日本映像学会第8回大会が同大学で開催され、赤坂はその実行委員長を務めた[7]

1994年(平成6年)6月26日、多摩美術大学在職中に死去した。満73歳没。

フィルモグラフィ

[編集]

新東宝時代

[編集]

テレビ時代

[編集]

ビブリオグラフィ

[編集]

国立国会図書館検索結果を参照[8]

[編集]
  1. ^ a b Akasaka, Chogi (英語)メリーランド大学カレッジパーク校、2009年11月8日閲覧。
  2. ^ a b 『CD-人物レファレンス事典 日本編』、「赤坂長義」の項、日外アソシエーツ、2004年。
  3. ^ a b 『一高時代の橋川文三 - 郷土喪失感情とロマン派体験』、長沢雅春、『白』2号所収、1992年12月。
  4. ^ 『現代思想家論』、中島誠第三文明社レグルス文庫、1972年、p.123.
  5. ^ 「歴代の主な同人」、歴程web歴程、2009年11月8日閲覧。
  6. ^ 『映画芸術』、第331号、1979年12月、あるいは同誌、第332号、1980年2月。
  7. ^ 第8回大会、赤坂長義、日本映像学会、1982年、2009年11月8日閲覧。
  8. ^ 国立国会図書館 NDL-OPAC国立国会図書館、2009年9月14日閲覧。

外部リンク

[編集]