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西郷泰之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西郷 泰之
Honda時代(2010年9月)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都
生年月日 (1972-08-30) 1972年8月30日(52歳)
身長
体重
185 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1996年
オリンピック
男子 野球
1996 野球

西郷 泰之(さいごう やすゆき、1972年8月30日 - )は、日本の元社会人野球選手(内野手主に一塁手、左投げ左打ち)である。

来歴

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東京都出身。練馬リトルシニアから日本学園高校卒業後、三菱自動車川崎(後・三菱ふそう川崎)に入社。

持ち前のパンチ力で入社すぐにレギュラーを獲得[要出典]。徐々に他チームの脅威の的となり、1995年に初めて日本代表入りすると、日本代表チームでも中核を打って社会人野球を代表するスラッガーとなり、現役最多の日本代表キャリア18を誇る。30代に入ってもその強打は衰えることなく、2007年第78回都市対抗野球大会では東芝に補強されて全試合で4番を任されて3本塁打を放ち(8打点)、打撃賞を獲得した。都市対抗野球大会での個人通算ホームラン数14本は杉山孝一新日鐵名古屋)と並ぶ大会記録である。

三菱ふそう川崎時代は、打席に立つ際に「燃えろ!西郷 エンジン機械課」の横断幕が掲げられた。また、2004年本社をめぐる不祥事で自チームが1シーズン活動を自粛している間は、秩父市の工場で自動車の修理に従事していた。

2008年シーズンをもって三菱ふそう川崎が活動休止したのに伴い、当初は引退を決意していたものの、Honda・安藤強監督の熱心な誘いに折れ、Hondaへ移籍した[1][2]

都市対抗野球大会では6回の優勝を経験している(三菱ふそう川崎3回(2000,03,05年)、Honda1回(2009年)、いすゞ自動車(補強)1回(2002年)、東芝(補強)1回(2007年))。また、決勝進出6回すべてで優勝しており、優勝請負人との異名を持つ。都市対抗において10年間で6度の優勝経験は史上最多、上記のとおり通算14本塁打は史上最多タイ[3]社会人ベストナイン受賞6回も史上最多タイと、社会人野球における数々の記録を保持しているため、2005年ごろからミスター社会人野球と称されるようになった。

2014年、故障等を乗り越え41歳にして都市対抗野球大会10年連続出場を達成した。

2015年11月25日に記者会見を行って現役引退を発表した[4]。その後は同社で社業に就いていたが、翌2016年12月にHondaのヘッドコーチに就任し[5]、2019年シーズンまで務めた。

2020年3月、東海大学硬式野球部の監督に転身していた安藤から再び誘いを受け、同大学コーチに就任した[6][7]。しかし、部内での不祥事により安藤とともにその年をもって辞任する事となった[8]

日本代表キャリア

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主な表彰・タイトル

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脚注

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  1. ^ 社会人野球:垣野氏がNTT東監督に 毎日新聞 2009年1月4日閲覧
  2. ^ 安藤監督は、「3番の長野の後に西郷を据えれば、強力な打線の軸が完成する」と考えたという(グランドスラム33号より)。
  3. ^ ただし、1988年第59回都市対抗野球大会から東京ドームに移行したことと、2002年シーズンから金属バットの使用ができなくなっているため、杉山の記録との単純比較は難しい。杉山は14本すべて金属バット、5本が後楽園球場、9本が東京ドームで記録している一方、西郷は5本が金属バット、9本が木製バット、すべて東京ドームで記録している。
  4. ^ 「ミスター社会人」ホンダ・西郷が引退「必死の練習が25年につながった」 スポーツ報知 2015年11月25日 ※インターネットアーカイブ2015年11月25日付保存キャッシュ
  5. ^ ホンダ新体制で始動 「守り勝つチームに」 /埼玉 毎日新聞 2017年2月28日閲覧
  6. ^ 東海大コーチに「ミスター社会人」西郷泰之氏就任 都市対抗では6度の優勝経験スポニチアネックス 2020年2月16日
  7. ^ 「ミスター社会人野球」西郷氏が東海大コーチに就任へ報知新聞 2020年2月15日 2020年5月20日閲覧
  8. ^ 部員大麻で厳重注意処分から急転…東海大・安藤監督が辞任、西郷コーチとともに「引責」スポニチ 2020年12月25日 2021年8月11日閲覧

関連項目

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外部リンク

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