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葉室光俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
葉室 光俊
時代 鎌倉時代中期
生誕 承元3年(1209年
死没 建治2年6月9日1276年7月21日
改名 光俊→真観(法名)
別名 右大弁入道
官位 正四位下右大弁
主君 順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 葉室家
父母 父:葉室光親、母:吉田定経娘・経子
兄弟 定嗣光俊堀川顕親藤原光氏
親暁、円成、鷹司院按察
土御門定通室、久我通平正室、
藤原高実室、大炊御門師経養女、満子、葉室資頼室、長資朝臣室、滋野井公賢
定円、親子鷹司院帥
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葉室 光俊(はむろ みつとし)は、鎌倉時代中期の公家歌人権中納言葉室光親の子。官位正四位下右大弁新三十六歌仙の一人。子に大僧都・定円、尚侍家中納言(藤原親子)、鷹司院帥がおり共に勅撰歌人である。出家して真観と称した。右大弁入道等とも呼ばれる。

経歴

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葉室光親の子として誕生。母は順徳天皇の乳母としても知られる藤原経子。同腹の弟に後嵯峨院院司葉室定嗣がいる[1]

承久2年(1220年)、右少弁蔵人に任じられる。翌承久3年(1221年)、承久の乱敗北により、父光親は死罪、光俊も連座して筑紫国に配流されたが、嘉禄2年(1226年)以降は中央に返り咲き、後堀河院院司別当に至る。正四位下、右衛門権佐、右大弁。嘉禄2年(1236年)出家、法号真観[* 1]

歌人としては、始め藤原定家に師事し、『新勅撰和歌集』で勅撰集入集を果たすが、やがて正三位知家(藤原知家)らと共に、御子左派への対抗勢力を形成。『現存和歌六帖』『秋風和歌集』等の編纂、『難続後撰』等の著述によってその立場を主張した。文応元年(1260年)以降、6代将軍・宗尊親王の歌の師として、鎌倉歌壇にも重きをなす。歌枕の研究に『風土記』を活用したことでも知られる[2]。また、宗尊親王の後援を背景として、後嵯峨院の命により『続古今和歌集』撰者に加えられる[3]等、中央歌壇にも影響力を持ったが、親王の失脚に伴い、勢いを失った。

系譜

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作品

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勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
千載和歌集 新古今和歌集 新勅撰和歌集 藤原光俊朝臣  4
続後撰和歌集 藤原光俊朝臣 10 続古今和歌集
(撰者5名に入る)
藤原光俊朝臣
光俊朝臣
(一本藤原光俊)
25
 5
 1
続拾遺和歌集 藤原光俊朝臣
光俊朝臣
 1
15
新後撰和歌集 藤原光俊朝臣
光俊朝臣
 2
 8
玉葉和歌集 藤原光俊朝臣
光俊朝臣
 1
 4
続千載和歌集 藤原光俊朝臣
光俊朝臣
 1
 4
続後拾遺和歌集 光俊朝臣  3 風雅和歌集 藤原光俊朝臣  2 新千載和歌集 光俊朝臣  3
新拾遺和歌集 藤原光俊朝臣
光俊朝臣
 1
 1
新後拾遺和歌集 藤原光俊朝臣
光俊朝臣
 3
 3
新続古今和歌集 藤原光俊朝臣  4
百首歌・歌合
名称 時期 作者名表記 備考
日吉社撰歌合 1232年(寛喜4年)3月14日奉納
石清水若宮歌合 1232年(寛喜4年)3月25日
洞院摂政家百首 1232年(貞永元年)
新撰六帖題和歌 1244年(寛元2年) 家良・為家知家信実・光俊による題詠と相互加点
春日若宮社歌合 1246年(寛元4年)12月
宝治百首 1248年(宝治2年)
九月十三夜百首歌合 1256年(建長8年)
宗尊親王家百五十番歌合 1261年(弘長元年)7月7日
和歌御会 1270年(文永7年) 題者
摂政家月十首歌合 1275年(建治元年) 判者
撰歌
  • 『現存和歌六帖』
  • 『秋風和歌集』
    • 1251年(建長3年)冬頃。20巻1365首。
  • 『石間集』
    • 1256年(建長8年)9月以降、1275年(建治元年)9月以前。10巻。散逸。
  • 『瓊玉和歌集』
    • 宗尊親王の家集。1264年(文永元年)12月9日撰進。10巻508首。
  • 『現存三十六人詩歌』
私家集
  • 『閑放集』
    • 残決のみ伝存。
歌論

脚注

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注釈

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  1. ^ あるいは貞観とも。

出典

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  1. ^ 小森正明「葉室定嗣小伝」『書陵部紀要』第73号、2022年、3頁
  2. ^ a b 兼岡(参考文献)
  3. ^ 佐藤(参考文献)

参考文献

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関連項目

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