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粟屋元種

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
粟屋元種
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 大永4年(1524年
死没 慶長10年2月7日1605年3月26日
改名 粟屋元宣→粟屋元種
別名 与十郎、余十郎(通称
官位 内蔵丞、但馬守
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 源姓粟屋氏
父母 父:粟屋元方
兄弟 元良元種元利盛忠
正室:宍戸隆家の養女(小河内石見守の娘)
元信新見景行
養子:元貞(弟・元利の次男)
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粟屋 元種(あわや もとたね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の譜代家臣。父は粟屋元国の弟である粟屋元方

生涯

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大永4年(1524年)、毛利氏の譜代家臣である粟屋元方の次男として生まれ、毛利元就隆元輝元の三代に仕える。

特に隆元から度々所領を与えられており、天文19年(1550年12月30日安芸国実時半名において1町6段半の田地と屋敷4つと本屋敷の上の山、天文21年(1551年2月29日安芸国高田郡佐々部の次郎丸名において田地3町1段半と米6石9斗と代4貫文、永禄元年(1558年7月20日備後国山中の田原三郎右衛門の先給地、永禄4年(1561年4月7日に安芸国船木の内の守弘名と所木を与えられた。

天文24年(1554年4月11日の矢野における合戦では尾頸丸切り崩しの際に先陣を務め、元就と隆元に感状を与えられた。

永禄11年(1568年)頃から天正13年(1585年)頃まで毛利氏の奉行人を務めており、毛利氏の五奉行の一人であった赤川元保が永禄10年(1567年)に粛清されたことによって五奉行に加えられたとされる。また、元亀3年(1572年)の毛利氏掟においても奉行衆の一人として名を連ねている。

永禄12年(1569年)10月に大内輝弘の乱が勃発し、大内輝弘が周防国山口へ侵攻した際、山口奉行市川経好は北九州へ出征中であったため、留守を守っていた元種と内藤就藤山県元重や、市川経好の妻などが百余人の守兵と共に高嶺城に立て籠もった。

天正6年(1578年)には石山本願寺支援のために摂津国木津城の主将として在番を命じられ、その恩賞として備後国山中の田原右京進の先知行分を与えられた。

天正8年(1580年4月14日、輝元の備中出陣において先鋒部隊の将を務めていた嫡男・元信が備中国下加茂の山中において伊賀久隆の強襲を受け戦死した。この戦いは元信の他にも児玉元房井上元勝奈古屋元賀小寺就武三戸元好宇多田藤右衛門などが討ち取られる大敗であった(加茂崩れ)。嫡男の元信が戦死したことによって元種の後継がいなくなったため、元種の弟である元利の次男・元貞を養子とし、家督を相続させた。

天正16年(1588年7月28日に輝元の参議任官式が宮中で行われた際に、元種は国司元蔵と共に折烏帽子と風折狩衣姿で輝元の供として従った[1]

慶長10年(1605年2月7日に死去。享年82。

脚注

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  1. ^ 粟屋元種と国司元蔵の他に、小早川隆景吉川広家が冠と黒装束を、穂田元清福原元俊口羽春良渡辺長神田元忠堅田元慶林就長が冠と赤装束を、その他の供衆は烏帽子直垂をそれぞれ着用し、輝元の供として従った。

参考文献

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  • 萩藩閥閲録』巻9「粟屋帯刀」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 加藤益幹「戦国大名毛利氏の奉行人制について」(藤木久志編『戦国大名論集14 毛利氏の研究』、1984年
  • 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年