結城朝広
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時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 建久元年(1190年) |
死没 | 不明 |
別名 | 結城七郎(通称) |
墓所 | 茨城県結城市浦町の称名寺 |
官位 | 兵衛尉、左衛門尉、検非違使、正五位下、大蔵権少輔 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源実朝、藤原頼経 |
氏族 | 結城氏 |
父母 | 結城朝光、伊賀朝光娘 |
兄弟 |
朝広、平方朝俊、寒河時光、山川重光、 朝村、朝長、宗政、宗泰、小磯時広、 河原田朝綱 |
妻 | 安保実光娘 |
子 |
関朝泰、広綱、祐広、金山時祐、 平山信朝、益戸義広 |
結城 朝広(ゆうき ともひろ)は、鎌倉時代中期の武将[1][2]・御家人。下総結城氏2代当主。
略歴
[編集]建久元年(1190年)、初代当主・結城朝光の長男として誕生。
承久3年(1221年)、承久の乱では幕府側に与して北陸道の大将として参戦し、越中国における朝廷軍との戦いで戦功を挙げた。その功績により、兵衛尉・左衛門尉に任じられる。その後、検非違使となって京都の警護に功を挙げ、仁治3年(1242年)には正五位下、大蔵権少輔に任じられた。その後はそれまでの功績をもって幕政で重きを成し、結城氏の全盛期を創出した。
没年は詳しく分かっていないが、文永11年(1274年)を最後に史料から姿を消しているため、恐らくはこの年の前後に死去したものと思われる。
家督は子・広綱が継いだ。また、祐広は分家して白河結城氏の祖となった。他の子としては、関朝泰(藤姓関氏)、金山時広、平山信朝等がいる。