紀元前541年
表示
世紀 | 前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀 |
---|---|
十年紀 |
前560年代 前550年代 前540年代 前530年代 前520年代 |
年 |
前544年 前543年 前542年 紀元前541年 前540年 前539年 前538年 |
紀元前541年(きげんぜん541ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元213年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前541年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]中国
[編集]- 楚の公子囲と伍挙が鄭に赴いた。
- 晋の趙武・楚の公子囲・斉の国弱・魯の叔孫豹・宋の向戌・衛の斉悪・陳の公子招・蔡の公孫帰生・鄭の罕虎(子皮)・許人・曹人が、虢で会盟した。
- 魯の季孫宿が莒を攻撃し、鄆を奪った。
- 秦の景公の弟の后子鍼が晋に亡命した。
- 鄭の公孫楚が公孫黒と争い、呉に追放された。
- 鄭の簡公が公孫段の邸で大夫6人と盟を交わした。公孫黒が盟に加わり、大史に名を書かせて、七子と言わせた。
- 晋の荀呉が軍を率いて大鹵で狄を撃破した。
- 莒の己去疾(著丘公)が斉から帰国し、己展輿が呉に亡命した。
- 楚の公子囲が子皙(公子黒肱)と伯州犂を派遣して、犨・櫟・郟に築城させた。
- 楚の公子囲が楚王郟敖を絞殺し、その2子を殺害した。右尹の公子比(訾敖)は晋に亡命し、宮厩尹の子皙(公子黒肱)は鄭に亡命し、太宰の伯州犂は郟で殺害された。公子囲(霊王)が楚王として即位した。