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竹青

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

竹青」(ちくせい)は、太宰治短編小説。雑誌掲載時のタイトルは「竹青―新曲聊斎志異―」だった。

概要

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初出 『文藝』1945年4月号
単行本 『薄明』(新紀元社、1946年11月20日)[注 1]
執筆時期 1945年2月20日頃~3月5日(推定)[注 2]
原稿用紙 30枚

本作品の末尾に「自註。これは、創作である。支那のひとたちに読んでもらひたくて書いた。漢訳せられる筈である」とある。太宰自身が書き記していた「創作年表」の「昭和二十年」「正月号」の項に、「小説(漢文/竹青)大東亜文学30」とあるため、1945年1月、中国語訳版「竹青」が『大東亜文学』(電報通信社)に発表されたと考えられていた。掲載誌が発見されてないため、翻訳はされなかったのではないかという説も強い[1][3][注 3]

太宰が本作品を書くときに拠った本は、『聊斎志異』(北隆堂書店、1929年11月10日、田中貢太郎訳・公田連太郎註)である[1]

あらすじ

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むかし湖南に魚容という名の貧書生がいた。氏も育ちも共に賤しくなく、ひたすら古書に親しみ、とくに道にはずれた振舞いもなかった人であるが、運には恵まれなかった。早く父母に死別し親戚の家を転々とし、ひとりの酒くらいの伯父から無学の下卑を押しつけられ、その女と結婚した。女は酒くらいの伯父の妾であったという噂もあり、顔も醜いが、心もあまり結構でなかった。魚容の学問を頭から軽蔑していた。

魚容はある日「おれもそろそろ三十。ここは一奮発して大いなる声名を得なければならぬ」と決意して、女房を殴って家を飛び出し、郷試(きょうし)に応じたが見事に落第。とぼとぼと故郷に帰る途中、洞庭湖畔の呉王廟の廊下に這い上がって寝ころんだ。

「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ」と小声で言って目を閉じうとうとすると、黒衣の男にゆり起こされた。男は「呉王さまのお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、からすの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい」と言って、ふわりと薄い黒衣を魚容にかぶせた。たちまち魚容は雄の烏となり、竹青という名の雌の烏と出会う。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『薄明』は随筆が中心の作品集。収録作品は以下のとおり。「小さいアルバム」「鉄面皮」「東京だより」「雪の夜の話」「竹青」「薄明」「男女川と羽左衛門」「弱者の糧」「容貌」「六月十九日」「食通」「五所川原」「青森」「校長三代」「或る忠告」「炎天汗談」「横綱」「革財布」「天狗」。
  2. ^ 「竹青」を書き上げた3月5日、6日頃から太宰は『お伽草紙』を書き始めている[1][2]
  3. ^ 「竹青」は40数年の後中国語に翻訳された。1991年2月発行の「上越教育大学国語研究」第4号に「竹青―新曲聊斎志異―」というタイトルで掲載された。翻訳は趙小鳳。

出典

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  1. ^ a b c 『太宰治全集 第7巻』筑摩書房、1990年6月27日、448-449頁。解題(山内祥史)より。
  2. ^ 『太宰治全集 第7巻』筑摩書房、1990年6月27日、453-455頁。解題(山内祥史)より。
  3. ^ 『太宰治全集 6』ちくま文庫、1989年2月28日、450頁。解題(関井光男)より。

関連項目

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外部リンク

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