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畑英太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はた 英太郎えいたろう
畑 英太郞
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1897年 - 1930年
最終階級 陸軍大将
墓所 多磨霊園
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畑 英太郎(はた えいたろう、旧字体畑 英太郞1872年8月28日明治5年7月25日)- 1930年昭和5年)5月31日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将従三位勲一等功五級[1]

経歴

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日露戦争出征直前の畑兄弟 左が俊六、右が英太郎
多磨霊園にある、英太郎の墓

福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男として生まれる。東洋英和学校[2](現:麻布中学校・高等学校の前身に当たる)、三井銀行勤務を経て、陸軍士官学校入校。1896年5月、7期・歩兵科を首席卒業。翌年1月、陸軍少尉任官。1903年11月、陸軍大学校(17期)を優等で卒業した。近衛歩兵第2連隊中隊長を経て、日露戦争には第1軍兵站副官として出征、同兵站参謀鴨緑江軍兵站参謀、大本営参謀を務める。

参謀本部員、参謀本部付(イギリス差遣)、イギリス大使館付武官補佐官インド駐剳武官、欧州出張、陸軍省軍務局軍事課員、歩兵第56連隊長、軍事課長などを歴任し、1920年8月、陸軍少将に進級。航空局次長、軍務局長を経て、陸軍中将に進級、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任した。1929年7月、関東軍司令官となり、張作霖爆殺事件後において畑の手腕が期待されていた。しかし、翌年5月1日、陸軍大将に進級後、現役のまま旅順で死去した。公式には「病死(急性腎臓炎)」と発表されたが、何者かによる毒殺説も存在する。稚松会会員。

栄典

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位階
勲章

親族

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出典

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  1. ^ 『官報』第1053号「彙報 - 官庁事項 - 官吏薨去卒去死去」1930年7月4日。
  2. ^ 『歴代陸軍大将全覧(昭和編/満州事変・支那事変)』「陸軍大将略歴」p.15
  3. ^ 『官報』第4948号「叙任及辞令」1899年12月27日。
  4. ^ 『官報』第182号「叙任及辞令」1913年3月11日。
  5. ^ 『官報』第1123号「叙任及辞令」1916年5月2日。
  6. ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
  7. ^ 『官報』第3769号「叙任及辞令」1925年3月18日。
  8. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  9. ^ 『官報』第3728号「叙任及辞令」1925年1月28日。
  10. ^ 『官報』第602号「叙任及辞令」1928年12月29日。
  11. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献

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  • 『忠鑑 畑元帥』国風会本部、1964年。
  • 『歴代陸軍大将全覧 (昭和編/満州事変・支那事変)』中公新書ラクレ、2010年。
  • 稚松会会員名簿
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。