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渡辺久信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡辺 久信
埼玉西武ライオンズ監督時代
(2012年9月30日 西武ドーム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県勢多郡新里村(現:桐生市
生年月日 (1965-08-02) 1965年8月2日(59歳)
身長
体重
185 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1984年6月29日
TML / 1999年
最終出場 NPB / 1998年10月8日
TML / 2001年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 嘉南年代勇士
    嘉南遠伝勇士
    嘉南網客勇士 (1999 - 2001)
  • 西武ライオンズ
    埼玉西武ライオンズ (2004 - 2013, 2024)

渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ、1965年8月2日 - )は、群馬県勢多郡新里村(現:桐生市)出身の元プロ野球選手投手、右投右打)、元プロ野球監督

2008年から2013年まで埼玉西武ライオンズの監督を務めた後、2019年から2024年まで同球団のゼネラルマネージャー(GM)を務めた。2024年5月27日からは、成績不振で休養した松井稼頭央監督に代わって監督代行をシーズン終了まで務めた。

経歴

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プロ入り前

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新里村立新里中央小学校新里村立新里中学校出身[1][2]。ハイジャンプでは小学6年生の時に1.42 mを記録し、中学3年生の時には郡大会で1.75 mを、高校3年生の時には1.80 mをそれぞれクリアした[1]前橋工業高校時代から速球派の大型投手と期待された。中学時代から球速140 km/hに近いストレートを投げており、県の高校野球界でも注目の的だったが、自身は桐生高校を志望していた。当時の桐生高校は、阿久沢毅木暮洋のコンビで甲子園を席巻した直後であり、桐生高校側としても次代のエースとしての期待を込めて、受け入れ態勢を準備しており、専属の家庭教師をつけて受験勉強を開始したが、生来の勉強嫌いもあって3日で受験を断念し、結局前橋工業高校に進学した[3]

高校3年次の群馬大会では、太田工業高校との決勝で最終回に押し出しフォアボールサヨナラ負けを喫した[1]。渡辺が甲子園に出場したのは、1年生だった1981年夏の第63回全国高校野球選手権のみで、準優勝した京都商業高校に初戦でサヨナラ負けを喫した。しかし、この試合では完投している[1]

1983年のドラフト会議で、西武ライオンズは高野光を1位指名するも抽選で外れ、外れ1位で指名され入団した[注 1]。当時の最高球速は147 km/hで、本人は当時読売ジャイアンツ(巨人)で活躍していた槙原寛己のようにストレートで押せる投手、そして西武のエースを目指していた[1]。なお、群馬県出身者としては初のドラフト1位指名選手である[1]

現役時代

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西武時代

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快速球とフォークを武器に1年目の1984年から一軍に定着し、2年目の1985年は先発とリリーフを兼任してシーズン43試合に登板して11セーブを上げ、1985年の日本シリーズにも登板した。3年目の1986年は先発ローテーションの柱となりリーグ最多の16勝を上げて最多勝を獲得、リーグ最多奪三振にもなったがパ・リーグでのタイトルとなったのは1989年からなのでこの年の最多記録のみとなってる(86年から90年までに69勝、15勝以上4回という成績をおさめ、ライオンズ黄金期の中盤を支えた。以降、成績は下降線を辿るが、90年以降は工藤が安定し結果長期にわたるライオンズ黄金期が生まれた)。

1988年1990年も最多勝を獲得するなど、東尾修工藤公康郭泰源松沼博久らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。

1988年、15勝7敗で最多勝を獲得し、3連覇に貢献。中日との日本シリーズ第1戦、第5戦に登板し、セ・リーグ最多勝の小野和幸と投げ合い、第1戦は8回途中を1失点に抑え勝ち投手になり、第5戦は3回途中4失点(自責点は3)で勝ち負けつかなかったが、日本一に貢献した。

1989年10月12日、熾烈な優勝争いの天王山となった近鉄とのダブルヘッダー第1試合で途中登板したものの、ラルフ・ブライアントに勝ち越しソロ本塁打を打たれた。結局西武は同日のダブルヘッダーを2試合とも落とし、同年の優勝を逃す要因となった(10.19の項も参照)。渡辺は引退の記者会見で、最も心に残る場面として「後悔しないように、一番自信があった直球で勝負を挑んで、モノの見事に打たれた」と、この場面をとりあげている[4]

1990年5月9日の日本ハム戦に先発した渡辺は、9回までノーヒットピッチングだったが、西武打線も柴田保光の前に無得点に抑えられ、延長戦となった。10回もノーヒットを続けたが、11回に小川浩一にヒットを許し、ノーヒットノーラン達成はならなかった。試合は12回表に西武が先制、渡辺は11回無失点で勝利投手になった。日本シリーズでも1988年の日本シリーズに続いて開幕投手を務め、チーム4連勝の勢いを付ける完封勝利を記録した。

1991年は、開幕戦を完投勝利で飾った後は打ち込まれる日が続き、5月4日の近鉄戦では1回もたずにKOされ、自ら二軍での再調整を申し出て一軍登録を抹消される[5]。その後も振るわず、自身初の防御率4点台を記録し、勝敗も初めてシーズン負け越しを記録した。日本シリーズでは第3戦に登板し、2年連続初登板完封勝利を記録。チーム日本一に貢献した。

1992年10月10日の日本ハム戦では打席に入り、左前安打を記録した。当時は交流戦がなく、これは日本シリーズを見据えた采配であり、同試合では同僚の潮崎哲也石井丈裕も打席に立ったが、三振を喫しなかったのは渡辺だけであった。その後パ・リーグでの投手の安打は2001年9月29日でジェレミー・パウエル(同じく日本シリーズを見据えて送りバントをしたがそれが内野安打となった)まで、約9年間記録されなかった(松坂大輔が2000年に安打を記録しているが代打での記録であり、投手として記録したものではない)。

1993年、シーズンでは自己ワーストの14敗を記録(この年のリーグワースト2位の敗戦数)。日本シリーズで第3戦で勝利投手になったが、第7戦で敗戦投手となり日本一を逃した。なお自身のシリーズ敗戦投手は1986年の日本シリーズ以来の11試合ぶりの敗戦投手(リリーフ登板)で先発登板での敗戦投手はこれが最初で最後だった。

1994年は、4シーズン振りに勝ち越し、自身最後の規定投球回をクリアしたシーズンとなった。9勝8敗の成績でチームの5年連続リーグ優勝に貢献した[6]。巨人との日本シリーズでは2年ぶりに開幕投手を務め、自身最後のシリーズ勝利投手(通算7勝目であったが、全ての勝利は相手側球場での勝利で一度も本拠地での勝利は挙げれなかった)となったが、チームは日本一を逃した。11月5日の契約更改で1億2800万円から65%アップの年俸2億1000万円の提示に満足してサインした[6]。実は、この金額は、“新年俸”1億6000万円に“引き留め料”の5000万円が加算されたものだったが、渡辺自身は記者会見で「FA宣言はしていませんよ」とコメントし、純粋な大幅年俸アップと思い込んでいたようだ[6]。報道陣から「それはFAを行使したことになるんだよ」と指摘された渡辺は「知らなかった」とビックリ仰天したものの、「まあ、西武に残るつもりで、ここに来たし、球団の誠意も感じられたからいいです」と自らを納得させていた[6]

1995年、東尾修が監督に就任し、シーズン初登板こそ先発で延長10回途中まで無失点の好投はしたが、それ以降先発で4試合全て負けて4連敗となった。次の登板で先発勝利したが、内容の悪さから中継ぎに降格となり、リリーフ初登板で失点し、シーズンの大半を二軍で過ごすことになった。終盤に一軍に昇格し抑えを経験した。先発では7試合1勝4敗防御率6.43が、復帰後抑えに回ってからは11試合2勝0敗5S防御率1.65の好成績だったが、本人の先発志向が強かったため、翌年も先発投手としてシーズンを迎えた。

1996年6月11日のオリックス戦でノーヒットノーランを達成した[7]。シーズンでは、開幕からローテーションに入り、チームが下位に低迷する中でノーヒットノーランを記録した6月まで、西口文也の9勝に次ぐ6勝(4敗)と奮闘していたが、6月末から8月末まで5連敗し、チームが若手主体に切り替えたことにより二軍降格し、そのままシーズンを終える形になった。

1997年は主に谷間の先発を務めたが、プロ入り初の一軍未勝利に終わり、日本シリーズでも第3戦の8回にリリーフ登板したが、伊東勤が出した変化球のサインを見間違えストレートを投げた結果、先頭バッターの古田敦也に勝ち越しホームランを打たれ、さらに投手の高津臣吾に適時打を打たれるなど不本意な結果となった。

同年オフ、西武はチームの若返りを目指す球団方針から渡辺のトレードを検討したが、高額年俸(推定1億1300万円)がネックになったことから、11月23日に戦力外通告を言い渡した[8]。渡辺は現役続行を希望し[9]、セ・パ合わせて2、3球団から入団の打診を受け、登板機会の多そうなチームへの入団を希望していた[10]。同年12月5日、野村克也が監督を務めるヤクルトスワローズへ入団することが決まった[11]。背番号は21で、契約条件は年俸3000万円+出来高最高3000万円であり、退団が決まっていたテリー・ブロス吉井理人の穴を埋める先発投手としての活躍を期待されていた[11]ヤクルトを移籍先に選んだ理由は、「『野村ID野球』を学んでみたい」との思いからであった[12]。その際に、ヤクルトの前に管理部長の根本陸夫からダイエーへの移籍を誘われたが、関東に残りたいという気持ちがあったので、移籍は実現しなかった[13]

ヤクルト時代

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1998年は、『野村再生工場』での復活を期待されたが、速球にこだわるが故に速球を痛打される機会が目立った。5月20日の横浜戦で3年ぶりの完投勝利を挙げた(自身の連敗は8でストップ)が、この1勝に終わり、19試合の登板で1勝5敗、防御率4.23の成績で終わった。ただ、本人は後に「野村さんの下で1年やってみて、指導することの面白さを感じていました」とも語っており、野村の下で自らの野球経験を理論化し整理する良い機会になったとしている[13]

同年オフには伊東昭光とともに現役引退を申し入れ、同年10月15日に了承された[14]

台湾時代

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引退決断後、テレビ朝日テレビ埼玉文化放送野球解説者として専属契約を交わしたものの[15]、東尾の勧めによって、指導者の勉強のため急遽台湾に渡ることとなり、台湾大聯盟嘉南勇士の投手コーチに就任。

先輩の東尾や西武ファンの吉永小百合との会食の席で、話題が出ると、東尾は「ナベがいずれ日本で指導者をやるというのなら、一度台湾で勉強してきた方が絶対タメになるぞ。真剣に考えてみろ」と、すぐ家に帰って嫁と相談してこいといきなり言い出す[16]。その夜、直帰後に家族会議を開いて台湾行きを決断[16]

しかし、言葉による意思疎通が困難であったことから、当時台湾大聯盟で技術顧問を務めていた郭泰源に通訳を手配してくれるよう要請したところ、「言葉が通じないのであれば(渡辺が)自ら投げて身をもって教えればよい」とアドバイスを受けて急遽選手兼任となり、現役に復帰することになった[17]。中国語の家庭教師を雇って学んだ結果、1年ほどで日常会話程度はこなせるようになり、ヒーローインタビューに中国語で答えることもあった[18]。ヒーローインタビューでは覚えた中国語で「みんなありがとう!今夜は飲みましょう!」と叫び、球場を盛り上げた[19]

指導という名目もあり、日本時代のような速球中心のプライドが邪魔をせず、ヤクルト時代に野村から習得を指示されていた、緩いカーブやシュート等緩急を駆使した投球の結果、入団1年目から18勝で最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得(三振も1位だったが当時の台湾大聯盟では最多奪三振のタイトルは存在しなかった[20])するなど、台湾球界を代表するエースとして活躍した。また、西武在籍当時の同僚であった郭や、台湾に来た石井丈裕らとともに台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。

先発すると7回か8回まで投げ、最終回は投手コーチとしてマウンドの若い選手へアドバイスを送り、チームの投手部門の殆ど全てを任されていたため、自分が交代する時は自らタイムをかけて監督を呼ぶ自己申告制であった[16]

伸び悩むサイドスロー投手の参考になればと、自身が1試合サイドスローで投げたら、完封勝利したこともあった[21]

だと思って食べていた肉料理が、実は田圃に棲む体長40-50cmの野ネズミだと聞かされて、噎せ返りそうになったこともあった[注 2]。渡辺も台湾の選手やコーチとを飲み、料理を頬張りながら、台湾の文化や慣習に馴染もうと努めた。休日には一人でバス電車に乗り、知らない町を散策し、時には原付バイクで行くこともあった。夕暮れ時には屋台食堂にふらりと立ち寄り、居合わせたファンと野球談義に花を咲かせたこともあった[22]

オフの日は一人旅で台湾各地を歩き、声を掛けて来た地元の人と朝の4時まで飲み明かしたこともあり、台湾での人付き合いで酒が異様に強くなった[19]。コーチ業では日本での選手生活晩年に二軍生活を経験したことが生き、若手との距離を縮め、自ら歩み寄り飛び込んでいった[19]。後に3年間の台湾生活を「第二の青春時代だった」と振り返っている[19]

2001年シーズン途中に現役を引退し、コーチ業に専念した。台湾での経験について、渡辺は自著『寛容力』の冒頭で「指導者としての原点は台湾での3年間にある」と語っている。

引退後

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引退後はテレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を経て、2004年に二軍投手コーチとして西武に復帰。2005年から二軍監督兼投手コーチ、2007年からは二軍監督専任となる。在任中は正津英志の復活に尽力した。

西武監督時代

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2008年より伊東勤の後任として一軍監督に昇格。球団主導で招聘された黒江透修をヘッドコーチに据え、自ら小野和義[23]大久保博元清家政和熊澤とおるをコーチとして招聘、チーム力を底上げし前年度Bクラスのチームを就任1年目で優勝に導いた[24]

リーグ優勝時には人目を憚ることなく涙を流し、「こんなに泣いたのはオグリキャップの引退レース(第35回有馬記念)以来だ」とのコメントを残した[25][注 3]。ポストシーズンでは、クライマックスシリーズセカンドステージで日本ハムを4勝2敗(アドバンテージ含む)で破って日本シリーズに進出し、日本シリーズでは巨人を4勝3敗で破り、チームを4年ぶりの日本一に導いた。さらにアジアシリーズも制覇し、功績を評価され2008年の正力松太郎賞に選出された。

伊東の場合はレギュラーシーズン2位でプレーオフ・日本シリーズを制しての日本一であったため、西武でシーズン1位と日本シリーズ優勝を両方達成したのは森祇晶監督時代の1992年以来。また、前年Bクラスのチームを新人監督が日本一に導いたのは史上初となった。

2009年は黒江ヘッドコーチが辞任し、さらに大久保打撃コーチが不祥事によって更迭され、チーフコーチに大石友好、打撃コーチに森博幸、打撃コーチ補佐に黒田哲史が就任し首脳陣刷新して迎えるシーズンとなったが、シーズン序盤に抑え投手のアレックス・グラマンが故障で戦線離脱するなど、中継ぎ・抑え投手が軒並み調子を落とし、チームは4位と低迷した。計14回のサヨナラ負けを記録したが、これはパ・リーグにおけるワースト記録であり、両リーグを通じては1988年の広島、1993年の中日ドラゴンズと並ぶワーストタイ記録であった。球団から続投を要請され、新たに2年契約を結んだ。

2010年はリリーフ陣の崩壊で接戦を落とした前年度の反省から一転、ロッテから移籍してきたブライアン・シコースキーを抑え投手に据え、岡本篤志藤田太陽長田秀一郎らをセットアッパーとして起用する継投パターンを確立した。9月16日時点では2位のソフトバンクに3.5ゲーム差の首位に立ち、優勝マジック4が点灯していた。しかし、9月18日 - 20日のソフトバンク3連戦で3連敗を喫し0.5ゲーム差に迫られ、9月23日の楽天戦で敗れて2位に転落。9月26日の日本ハム戦で敗れたことでソフトバンクの優勝が決定し、監督3年目は2位で終えた。また、チーム防御率は前身クラウンライター時代以来、33年ぶりのリーグ最下位に転落した。クライマックスシリーズファーストステージでロッテと対戦するが、2試合連続で延長戦に突入した末に2連敗を喫し、シーズンを終えた。その後、進退伺を提出したと報道されたが、「負けっぱなしではいられない」との本人の意向から、2011年シーズンの続投が決定した。

2011年は投手陣の不振が主因となって、前半戦を球団史上15年ぶりの最下位で折り返すこととなった。また、球団史上32年ぶりとなる最大15の負け越しを記録し、7月12日から25日にかけては球団史上初の3カード連続の同一カード3連敗を喫するなど[26]チーム成績は低迷した。後半戦以降、新人の牧田和久を抑え投手として抜擢し、セットアッパーとして起用したミンチェ・岡本篤志の2人と併せて勝ち試合における継投パターンを確立して投手陣をてこ入れし、さらに中島裕之をキャプテンに任命してチームの建て直しを図った。また、3年目の浅村栄斗や新人の秋山翔吾といった若手野手を辛抱強く起用した結果[27]、9月14日から27日にかけて2つの引き分けを挟んで10連勝を記録するなど9月の月間成績を19勝5敗とし、クライマックスシリーズ出場へ望みを繋いだ。3位のオリックスと1ゲーム差の4位で迎えた10月18日のシーズン最終戦(日本ハム戦)に勝利、同日オリックスが敗れたことから、わずか勝率1差で3位に浮上し[注 4]クライマックスシリーズ出場を決めるとともに、最大15あった借金を完済し勝率5割以上の成績で公式戦全日程を終了した。また同日試合終了後、球団からの来季続投要請を受諾し、1年契約で2012年シーズンも指揮を執ることを表明した[28]。クライマックスシリーズファーストステージにおいては日本ハムを2連勝で破りファイナルステージ進出を決めたが、ファイナルステージにおいてソフトバンクに0勝4敗で敗退した。

2013年、終盤までソフトバンク、ロッテなどのクライマックスシリーズ争いが続き、10月5日にCS進出が決定[29]、9月29日から7連勝で2位に浮上し、最終戦は3位のロッテと2位とCSファーストステージ本拠地開催権をかけての試合で勝利し、8連勝で2位でシーズンを終える[30]。しかしCSファーストステージではロッテに1勝2敗で敗れ、敗退が決まった翌日の10月15日に球団に監督辞任を申し入れ、球団に了承された[31]。渡辺は記者会見で「今年の優勝が楽天に決まったときには、監督を退こうかなと思っていました」と述べた[32]

監督退任後

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2013年10月17日、西武球団シニアディレクターへの就任が発表された[33]。本人は後に、この異動について「今度はフロントとしてチームを見ていきたい、という気持ちが出てきた」「『やるからには根本さんを目指す』と決めました」と語っている[13]

2017年1月1日、シニアディレクターと兼任で、編成部長への就任が発表された[34]

2018年10月21日、2019年1月1日付でのゼネラルマネージャーへの就任が発表された[35]

2024年5月26日、監督の松井稼頭央が同日のオリックス戦を最後に休養に入り、代わりに5月28日の対中日戦から渡辺が兼任で監督代行として指揮を執ることが発表された[36]。渡辺にとって11年ぶりの現場復帰となった[37]。背番号は72[38]で、形式的に「コーチ」として登録されたのち、5月27日付けで監督代行として公示された[39]。監督代行就任後2試合目となる5月29日の対中日戦で初勝利を挙げた[40]。交流戦は4勝14敗の最下位に終わった[41]。就任会見ではAクラス入りを目標に掲げたが、8月30日の日本ハム戦に敗れ、就任後の成績を21勝49敗2分けとし、Bクラス入りが決定した[42]。9月10日の日本ハム戦に負け最下位が確定した[43]。10月9日のシーズン最終戦で退団を発表し、「GMとしてほとんどの選手の獲得に関わってきた。けじめをつけないといけない。この球団に残るのはおかしいと思う」と責任を受け止め、ゼネラルマネージャーからも退くこととなった[44]

プレースタイル

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常時140km/h台の速球(プロ入り後の最高球速は150km/h)を軸に、スライダーカーブフォークボールを交える典型的な力投型投手であり、コントロールの緻密さには欠けるものの球のキレと球威で勝負するタイプであった。また、1989年・1990年には2年連続で投球回数が200イニングを突破するなど、体力や回復力にも恵まれた投手であった。なお、その投球スタイル故に奪三振が多かった代償として被安打・被本塁打もまた多く、1989年・1990年には最多被安打を、1989年には最多被本塁打を記録している。

もっとも、力投型投手の多くがそうであったように、渡辺もまた力の衰えが見え始めた現役晩年に至っても全盛期のような力で押す投球スタイルから脱却できず、速球を痛打される機会が目立った。当時の西武監督であった東尾からは速球が通用するうちに投球の組み立てを変えるようアドバイスを受けたが、自身の体に残る全盛期のイメージが邪魔をしてモデルチェンジできなかったという[45][46]

人物

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プロ入り前

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小学校5年生から6年生のころ、白血病を罹患していた近所の児童(自身が中学校へ進学した頃に死去)を背負って登校していた[2]

現役当時

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愛称は「ナベ」「ナベQ[注 5]。現役時代は、私服でDCブランドを着こなし、さらにグラウンド内外でのファッション・アクションが球界や社会に影響を与え、西武時代のチームメイトであった工藤や清原和博と共に新人類と称された[47]。さらに185cmの長身でスリムなことから西崎幸広阿波野秀幸星野伸之らと「トレンディエース」と並び称され、女性ファンから絶大な支持を受けていた。入団2年目ごろまではまだ年俸が低かったため、年収の2/3ほどを洋服代に費やし、税金が払えなくなり督促状が届いたこともある[48]。しかし、1991年4月頃から頭髪が薄くなり、さらに台湾へ渡ってからは屋台飯にはまったことが原因で太り気味にもなってしまい、選手達にも「今じゃ信じられないだろうが、昔はこれでも西崎さん・阿波野さんと並んでイケメンと言われていたんだ」と自虐的にジョークを飛ばしている。

現役時代の愛車は最初に買った中古のBMWを除き、メルセデス・ベンツ一筋。当時の西武には土井正博(2軍打撃コーチ)と東尾の名球会コンビ以外は、ベンツに乗ってはならないとする暗黙のルールが存在したが、これを破りプロ入り3年目にベンツを購入し、これ以降多くの同僚選手が相次いでベンツを買ったため、後に「私が“ベンツ解禁”の先駆者になった」と語っている[49]

入団当時の監督であった広岡達朗の『管理野球』には辟易したと語る。選手寮に入って初めての食事の際、ご飯が茶色い玄米であったことと、冷蔵庫に牛乳が入っておらず豆乳のみであったことに驚かされたという。当時の玄米にしても豆乳にしても現在のような洗練された味ではなかったことから非常に不味かったが、おかずだけは美味しかったために何とかなったと回想している[50]。渡辺自身、管理されるのが最も嫌いな性格であったことから、将来「監督になったら絶対に管理はしないぞ」と誓ったという[51]。その一方で「今思えばその経験が良かったと思う。『新人類』と騒がれても、道は断じて踏み外していない。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎を作ってもらったのかも知れない」[52]、「蹴飛ばされたこともあったが、若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と当時を振り返っている[53]

工藤や清原からは「今までやってきた27年間の中でプロ野球投手としては最高の存在」と高い評価を受けている。工藤によると、素質・筋肉の質・関節の柔軟性がどれを取っても一流で、肺活量は7,500cc(通常プロは6,000cc前後)もあったという。また、工藤は「もう時効だから言いますけど、アイツ中学生の頃から喫煙していたにもかかわらず肺活量が並外れていて、それでいて筋肉の質も超一流。シーズン200イニング以上投げておきながら、試合後はまったくマッサージを受けないで平気でした。僕がマッサージを受けてる横から『工藤さん、お先です』って行って飲みにいってしまったの。今では200イニング投げるピッチャーっていませんよ」と述べている[54][注 6]。また、清原はオリックスで引退した2008年、対西武最終戦で渡辺から花束を贈呈された際、「若手の頃に一番可愛がってくれた先輩。本当に感激した。」と号泣した。菊池雄星との対談では、「渡辺監督と潮崎コーチなんて手本が揃ってるチームは滅多にない。特に渡辺監督。あの人についていけばまず大丈夫」とその手腕を絶賛した。

酒の強さも人並み外れており、1年後輩の大久保博元からは「西武時代の同僚で一番酒に強かった」「どんなに飲んでも、二日酔いが人生で一度もない人」と評されている。現役当時は「5人でヘネシー5本は飲む」という中で「一番飲んでるのが僕(大久保)とナベちゃん」だったという。監督となってからも「若い頃と飲みっぷりが変わらなかったし、酔っぱらわない」としている[55]

指導者として

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基本的には怒らないことを指導方針としているが、プロ意識を欠いた人間を非常に嫌う。台湾時代には新人ながら素質十分で練習しなくても活躍し、そのため首脳陣も何も口を出さなかった投手を呼びつけて「お前がどんなに優れた才能を持っていても、今の態度じゃ俺達のチームはお前なんていらない」と叱ったり、失策を犯した後に好プレーをした三塁手がコーチとハイタッチしているのを見て、試合後「こんな馴れ合いの環境じゃ、絶対に強くなれないぞ」と怒鳴りつけたりしたこともある。

西武二軍監督時代も「一人前の野球選手になる前に、まずは一人前の社会人にならなければならない」との方針から、若手選手の緊張感を欠いた態度には厳しく接した[56]

球団本部ゼネラルマネージャーとしては、大久保博元が「選手の幕引きまで考える人」と評している。これは、松坂大輔を古巣の西武に戻して西武の選手として引退させた事実を踏まえた上での評価である[57]

現役時代にブライアントに本塁打を打たれた後で森祇晶監督に配球を責められた経験から、監督時代は結果だけで選手を責めないよう心掛けていたと語っている[58][59]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1984 西武 15 7 2 0 0 1 1 0 -- .500 219 52.2 41 7 29 1 2 38 0 0 24 23 3.93 1.33
1985 43 15 7 0 0 8 8 11 -- .500 644 152.0 132 22 72 2 3 121 0 1 59 54 3.20 1.34
1986 39 24 13 1 0 16 6 1 -- .727 907 219.2 191 22 76 2 6 178 5 0 79 70 2.87 1.22
1987 30 9 5 1 0 5 3 8 -- .625 434 105.2 81 10 42 4 4 74 1 0 43 36 3.07 1.16
1988 28 25 14 3 0 15 7 0 -- .682 754 185.0 163 29 59 2 3 123 4 0 79 74 3.60 1.20
1989 29 28 17 4 0 15 11 0 -- .577 956 226.2 210 34 86 5 4 174 3 0 93 86 3.41 1.31
1990 30 29 16 2 1 18 10 0 -- .643 944 224.1 206 31 84 5 2 172 3 0 77 74 2.97 1.29
1991 25 23 6 1 0 7 10 0 -- .412 658 151.1 142 17 68 3 5 127 7 0 79 74 4.40 1.39
1992 28 26 8 2 0 12 12 0 -- .500 777 179.1 164 17 84 1 4 141 8 0 83 76 3.81 1.38
1993 26 25 7 1 0 9 14 0 -- .391 692 160.0 153 15 70 2 3 143 7 0 72 68 3.83 1.39
1994 25 24 4 0 0 9 8 0 -- .529 653 146.1 149 16 73 2 5 97 14 0 79 71 4.37 1.52
1995 20 7 0 0 0 3 4 6 -- .429 216 49.1 42 7 29 0 1 43 3 0 31 31 5.66 1.44
1996 20 19 5 2 0 6 9 0 -- .400 509 118.1 116 19 50 0 3 92 6 0 66 60 4.56 1.40
1997 12 7 0 0 0 0 2 0 -- .000 193 43.1 42 4 25 0 2 37 1 0 25 20 4.15 1.55
1998 ヤクルト 19 9 1 0 0 1 5 1 -- .167 267 61.2 56 9 36 3 2 49 1 0 30 29 4.23 1.49
1999 勇士 28 27 8 2 1 18 7 0 -- .720 865 207.2 195 11 45 4 5 201 9 0 72 54 2.34 1.16
2000 27 26 7 1 1 15 8 0 -- .652 816 203.2 194 13 38 5 4 169 2 0 74 56 2.47 1.14
2001 23 4 3 0 2 2 7 4 -- .222 354 86.1 81 8 6 0 2 80 6 0 44 35 3.65 1.01
NPB:15年 389 277 105 17 1 125 110 27 -- .532 8823 2075.2 1888 259 883 32 49 1609 63 1 919 846 3.67 1.33
TML:3年 78 57 18 3 4 35 22 4 -- .614 2035 497.2 470 32 89 9 11 450 17 0 190 145 2.62 1.12
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

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レギュラーシーズン



























2008年 西武 1位 144 76 64 4 .543 - 198 .270 3.86 43歳
2009年 4位 144 70 70 4 .500 11.0 163 .261 4.01 44歳
2010年 2位 144 78 65 1 .545 0 150 .271 4.19 45歳
2011年 3位 144 68 67 9 .504 20.5 103 .253 3.15 46歳
2012年 2位 144 72 63 9 .533 3.0 78 .251 3.24 47歳
2013年 2位 144 74 66 4 .529 7.5 86 .257 3.54 48歳
2024年 6位 98 34 61 3 .358 42.0 60 .212 3.02 59歳
通算:7年 962 472 456 34 .509 Aクラス5回、Bクラス2回
  • 順位の太字は日本一
  • 2024年は松井稼頭央監督の休養後、5月27日からシーズン終了まで監督代行。
ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2008年 西武 パ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ(※1)
北海道日本ハムファイターズ
パ・リーグ3位)
4勝2敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 読売ジャイアンツ
セ・リーグ1位)
4勝3敗=日本一
アジアシリーズ2008予選 統一セブンイレブン・ライオンズ
SKワイバーンズ
天津ライオンズ
2勝1敗=決勝戦進出
アジアシリーズ2008決勝 統一セブンイレブン・ライオンズ
(予選2位)
1x-0=アジア王者
2010年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
千葉ロッテマリーンズ
(パ・リーグ3位)
0勝2敗(敗退)
2011年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
北海道日本ハムファイターズ
(パ・リーグ2位)
2勝0敗=ファイナルステージ進出
パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ(※1)
福岡ソフトバンクホークス
(パ・リーグ1位)
0勝4敗(敗退)
(※3)
2012年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
福岡ソフトバンクホークス
(パ・リーグ3位)
1勝2敗(敗退)
2013年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
千葉ロッテマリーンズ
(パ・リーグ3位)
1勝2敗(敗退)
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 2008年以降のクライマックスシリーズ2ndステージ(2010年以降ファイナルステージ)は6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
※2 アドバンテージの1勝を含む
※3 4敗の中に相手チームのアドバンテージの1勝を含む。
※4 アジアシリーズ2008の詳細は2008年のアジアシリーズの項を参照のこと。

タイトル

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NPB
TML
  • 最多勝利 (1999年)
  • 最優秀防御率 (1999年)

表彰

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NPB
その他

記録

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NPB初記録
投手記録
  • 初登板:1984年6月29日、対日本ハムファイターズ14回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に2番手として救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:同上、9回表に五十嵐信一から
  • 初先発登板:1984年7月5日、対ロッテオリオンズ14回戦(西武ライオンズ球場)、8回2失点
  • 初完投:1984年7月19日、対阪急ブレーブス19回戦(西武ライオンズ球場)、6回1失点(雨天コールド
  • 初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1984年8月18日、対ロッテオリオンズ18回戦(西武ライオンズ球場)、9回2失点
  • 初セーブ:1985年5月17日、対阪急ブレーブス7回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に4番手として救援登板・完了、2回無失点
  • 初完封勝利:1986年5月26日、対近鉄バファローズ8回戦(西武ライオンズ球場)
打撃記録
  • 初安打:1992年10月10日、対日本ハムファイターズ25回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に金石昭人から左前安打
NPB節目の記録
  • 1000投球回:1990年5月22日、対日本ハムファイターズ5回戦(東京ドーム)、1回裏3死目に達成
  • 1000奪三振:1991年10月2日、対ロッテオリオンズ24回戦(西武ライオンズ球場)、3回表に佐藤兼伊知から ※史上83人目
  • 1500投球回:1993年4月10日、対福岡ダイエーホークス1回戦(西武ライオンズ球場)、4回表2死目に達成
  • 100勝:1993年5月12日、対オリックス・ブルーウェーブ5回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点完投勝利 ※史上106人目
  • 1500奪三振:1996年7月9日、対日本ハムファイターズ15回戦(東京ドーム)、6回裏にバーナード・ブリトーから ※史上40人目
  • 2000投球回:1997年6月14日、対日本ハムファイターズ13回戦(西武ライオンズ球場)、4回表1死目に達成
NPBその他の記録
  • 最多奪三振:1回 (1986年)※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは、1989年より表彰
  • ノーヒットノーラン:1996年6月11日、対オリックス・ブルーウェーブ12回戦(西武ライオンズ球場) ※史上63人目
  • オールスターゲーム出場:6回 (1985年、1986年、1988年 - 1990年、1992年)
日本シリーズ
  • 6連勝 (1986年第6戦 - 1993年第3戦) ※シリーズ記録
  • 2試合連続完封勝利 (1990年第1戦、1991年第3戦) ※シリーズタイ記録
  • 通算6暴投 ※シリーズ記録
  • 1シリーズ2暴投 (1988年、1993年) ※シリーズタイ記録、2度記録したのは渡辺のみ
  • 1試合2暴投 (1988年第1戦) ※シリーズタイ記録

背番号

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  • 41(1984年 - 1997年、1999年 - 2001年)
  • 21(1998年)
  • 74(2004年 - 2007年)
  • 99(2008年 - 2013年)
  • 72(2024年5月27日 - 同年終了)

関連情報

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著書

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DVD

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脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ 当初、2位指名予定の辻発彦を繰り上げる方向だったが、出席していた広岡達朗監督が「まだ渡辺が残っている」と指摘し、急遽指名されたという。
  2. ^ 台湾ではポピュラーな食材である。
  3. ^ 西武が日本シリーズ制覇を決めた11月9日には、奇しくもオグリキャップが、18年振りに東京競馬場に登場していた。
  4. ^ 公式戦全日程終了時における西武の勝率は.50370(68勝67敗9分)、一方オリックスの勝率は.50364(69勝68敗7分)であり、一般に「1毛差」と解説されるが、実際には「6差」という極々わずかな勝率の差による逆転劇であった。
  5. ^ 「ナベQ」は、渡辺智男の西武入団以降、活字メディアで「渡辺久」と表記される機会が増えたことから、「久」の字の音読みアルファベットにしたもの。ただし、同姓の選手がいた場合でも、ユニフォームの背中のネームは「エッチ渡辺(H.WATANABE)」に見えることを嫌い頭文字は入れなかった。
  6. ^ なお、渡辺から見て先輩に当たる工藤は、渡辺が監督を務める西武に2010年の1シーズン現役選手として所属した。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f 「12球団週間報告新春特別企画 西武ライオンズ」『週刊ベースボール』第39巻第2号、ベースボール・マガジン社、1984年1月16日、64頁。「NDLJP:7909260/33  - 通巻:第1444号(1984年1月16日号)。
  2. ^ a b 聞き手:鈴木葉留彦「ヤングレオ“翔んでるトーク“ 西武・渡辺久信 楽しんで投げたら最多勝!それもこれも“暗黒”の高校時代があったから…だから両刀(先発・抑え)でも苦になりません」『週刊ベースボール』第41巻第57号、ベースボール・マガジン社、1986年12月29日、115頁。「NDLJP:7909436/58  - 通巻:第1619号(1986年12月29日号)。
  3. ^ AERA』2000年5月15日号。
  4. ^ 【私の失敗(1)】渡辺久信、忘れられないブライアントへのあの1球(1/2ページ) - サンスポ
  5. ^ 読売新聞1991年5月6日18面
  6. ^ a b c d “あわや「セルフ戦力外」危機も…FA行使を巡る驚くべき“3つの珍事件””. デイリー新潮. (2022年11月21日). https://www.dailyshincho.jp/article/2022/11211700/?all=1 
  7. ^ 23年前、渡辺久信が大記録を遂げられた理由は? | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE
  8. ^ 『東京新聞』1997年11月24日朝刊運動3面16頁「【西武】渡辺久に戦力外通告」(中日新聞東京本社)
  9. ^ 『中日新聞』1997年11月24日朝刊運動2面16頁「渡辺久に戦力外通告 西武」(中日新聞社)
  10. ^ 『中日新聞』1997年11月26日朝刊運動2面22頁「複数球団が渡辺久に打診」(中日新聞社)
  11. ^ a b 『読売新聞』1997年12月6日東京朝刊スポーツB面20頁「西武を自由契約の渡辺久、ヤクルトに入団 背番号は21」(読売新聞東京本社)
  12. ^ 『寛容力』 p.78
  13. ^ a b c 渡辺久信は根本陸夫の誘いを断り、野村克也のヤクルト入りを決断した - Sportiva・2021年5月5日
  14. ^ 『読売新聞』1998年10月16日東京朝刊スポーツA面23頁「ヤクルトの渡辺、伊東の両投手が引退」(読売新聞東京本社)
  15. ^ 『寛容力』 p.72 - 74
  16. ^ a b c 中溝康隆『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」 (新潮新書)』新潮社2021年5月17日ISBN 4106109077、p194。
  17. ^ 『寛容力』 p.90
  18. ^ 【私の失敗(3)】渡辺久信、通訳不在にがく然…指導できない - サンケイスポーツ・2015年5月7日
  19. ^ a b c d 中溝康隆『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」 (新潮新書)』、p195。
  20. ^ 那魯湾股份有限公司『台灣職棒大聯盟六年紀錄年鑑』、2003年
  21. ^ 『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」 (新潮新書)』、pp194-195。
  22. ^ 赤坂英一「プロ野球 二軍監督ー男たちの誇り」2011年4月25日、講談社ISBN 4062167875、p71。
  23. ^ 渡辺SDがフロントトップに立ったとき、常勝軍団・西武ライオンズがよみがえる 産経新聞
  24. ^ 【野球】子年のプロ野球 巨人&オリックスに縁起よし?”. デイリースポーツ online (2020年1月5日). 2022年6月23日閲覧。
  25. ^ ナベQ男泣き!西武4年ぶり21度目V (2/3ページ)SANSPO.COM 2008年9月27日 05:12)
  26. ^ 西武 球団初の屈辱9連敗 - 日刊スポーツ 2011年7月21日
  27. ^ 1毛差CS!借金最大15から最終戦で大逆転!…西武 - スポーツ報知 2011年10月19日[リンク切れ]
  28. ^ ナベQ続投1年契約「来年もやります」 - 日刊スポーツ 2011年10月19日
  29. ^ 朝日新聞2013年10月6日スポーツ面
  30. ^ 西武、8連勝締め!2位死守でCS本拠地開催決めたスポーツニッポン2013年10月8日配信
  31. ^ 朝日新聞2013年10月15日夕刊スポーツ面
  32. ^ 渡辺久信監督が辞意を表明西武球団公式サイト2013年10月15日配信
  33. ^ 渡辺前監督シニアディレクターに就任西武球団公式サイト2013年10月17日配信
  34. ^ 球団本部の人事異動について西武球団公式サイト2016年12月26日配信
  35. ^ 球団本部の人事異動について西武球団公式サイト2018年10月21日配信
  36. ^ 【西武】松井稼頭央監督が休養へ 渡辺久信GMが監督代行 26日のオリックス戦を最後に”. 日刊スポーツ (2024年5月26日). 2024年8月31日閲覧。
  37. ^ 【西武】渡辺久信監督代行 11年ぶりにユニホームを着用してグラウンドへ”. 日刊スポーツ (2024年5月28日). 2024年7月14日閲覧。
  38. ^ 西武・松井監督休養 監督代行の渡辺GM「責任感じている…プロ野球人生かけてやっていく」 - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2024年5月26日閲覧。
  39. ^ 2024年度 監督・コーチ一覧(埼玉西武ライオンズ) 日本野球機構(2024年5月27日閲覧)
  40. ^ 【西武】渡辺久信GM監督代行として初勝利 11年ぶりユニホームでうれしい白星”. 日刊スポーツ (2024年5月29日). 2024年7月14日閲覧。
  41. ^ 【西武】交流戦最下位4勝14敗、最後は4連敗で借金25「なかなか投打もかみ合わず」監督代行”. 日刊スポーツ (2024年6月16日). 2024年7月20日閲覧。
  42. ^ 西武大刷新 渡辺監督代行辞任へ 内部昇格なら西口2軍監督が有力候補、外部招聘の可能性も「なかなか投打もかみ合わず」監督代行”. スポニチ Sponichi Annex (2024年8月30日). 2024年8月31日閲覧。
  43. ^ 【西武】渡辺GM兼監督代行「こんだけ負けてりゃ、当然…」今季125試合目で最下位確定に”. 日刊スポーツ (2024年9月10日). 2024年10月13日閲覧。
  44. ^ 西武・渡辺久信監督代行が退団「けじめをつけないといけない。残るのはおかしい」」『Sponichi Annex』2024年10月9日。2024年10月10日閲覧。
  45. ^ 『寛容力』 p.77
  46. ^ “西武黄金時代のエース”が台湾球界で掴んだ名指導者への道【渡辺久信、最後の1年】 | BASEBALL KING
  47. ^ 【話の肖像画】男のプライド(中)プロ野球投手・工藤公康 - MSN産経ニュース[リンク切れ]
  48. ^ 【私の失敗(4)】渡辺久信、洋服を買いすぎて税金払えず - サンケイスポーツ・2015年5月8日
  49. ^ 『週刊新潮』2012年1月26日号 有名人&芸能人の愛車データベース 2012年2月23日
  50. ^ 『寛容力』 p.172
  51. ^ 週刊ポスト、2009年2月6日号、p68 - 69
  52. ^ 週刊朝日、2009年4月10日号、p35
  53. ^ SPORTS COMMUNICATIONS - 西武、4年ぶりリーグ制覇!
  54. ^ 文藝春秋2008年5月号 工藤公康・あさのあつこ対談「バッテリーは永遠の友情の絆」
  55. ^ 大久保博元さん 西武時代に一番酒に強かったのは渡辺久信 - 日刊ゲンダイDIGITAL・2020年12月21日
  56. ^ 『寛容力』 p.179 - 181
  57. ^ 松坂大輔"西武ライオンズ”で引退!感動をありがとう デーブ大久保チャンネル 2021/07/07 (2021年7月11日閲覧)
  58. ^ 【私の失敗(1)】渡辺久信、忘れられないブライアントへのあの1球(2/2ページ) - サンスポ
  59. ^ Xユーザーの日刊スポーツ東京販売局さん: 「長期連載「野球の国から」西武・渡辺GMの人生②豪快なエピソード満載の人生3回連載🦁2回目は「プロ野球編」⚾“あの試合”を臨場感たっぷりにお届け🏟詳しくは本日の日刊スポーツで📰 #渡辺久信 #西武ライオンズ #西武 #近鉄 #ブライアント #森祇晶 https://t.co/1uhb3sRCot」 / X
  60. ^ 2008年 日本プロスポーツ大賞発表!!”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. 2017年11月25日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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