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康富記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

康富記』(やすとみき)は、室町時代の外記局官人を務めた中原康富の日記。

記述は応永8年(1401年)から康正元年(1455年)に及ぶが、散逸が顕著であり、特に永享年間(1429年-1441年)の記述はほぼ全てが欠落している。また応永8年(1401年)の日記は康富の経歴、年齢に鑑みると、父・中原英隆が書いたものと考えられ、康富の筆は応永22年(1415年)からとされる[1]。幕府を始め、武家の動向や、隼人司主水司大炊寮の各々の所領の経営について細かく記述され、和歌連歌猿楽など文化、芸能に関する記述も豊富。15世紀前半の社会、有職故実を研究する上で有益な情報を提供する貴重な史料である。朝議、除目叙位については関係文書を貼り継いで補填した箇所も多い。

欠落部分を補う文書として「永享二年大賞会記」「永享十年八幡宮放生会記」などがある。国立国会図書館に原本93巻が所収される。

備考

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  • 文安6年(1449年)5月条に、世間を騒がせた白比丘尼という200余歳の白髪の比丘尼(13世紀生まれという尼)が若狭から上洛した記事があり、この「白比丘尼」は『臥雲日件録』では八百老尼と同じと解されている。この白比丘尼自体は見世物として料金がとられており、八百比丘尼伝説を利用した芸能者であったと考えられている[2](当時、比丘尼伝説は尼の布教活動に利用されていた)。

参考文献

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脚注

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  1. ^ 康富記』 - コトバンク
  2. ^ 参考・勝浦令子 『古代・中世の女性と仏教』 山川出版社 2003年 p.83

外部リンク

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