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坂井利郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂井利郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都世田谷区
生年月日 (1947-11-23) 1947年11月23日(76歳)
4大大会最高成績・シングルス
全豪 2回戦(1968年)
全仏 3回戦(1974年)
全英 3回戦(1973年)
全米 3回戦(1971年)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 75位
獲得メダル
男子 テニス
アジア競技大会
1974 テヘラン シングルス

坂井 利郎(さかい としろう、1947年11月23日 - )は、日本の元男子テニス選手。

人物

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東京都世田谷区生まれ。成城学園中学校高等学校早稲田大学教育学部教育学科体育学専修卒業[1]1970年代前半に日本のテニス界をリードした選手で、第2次世界大戦後の日本人男子テニス選手として、世界的にも顕著な活躍をした名選手であった。男子プロテニス協会によるシングルス自己最高ランキングは75位。テニスコーチやテレビ解説者としての業績も多い。

坂井は1967年に「全日本テニスランキング」で9位に入り、1976年までトップ10位以内を維持した。1968年に「全日本室内テニス選手権」で初優勝を果たし、この大会では1970年1972年-1977年(大会6連覇)にも優勝して、通算「8勝」を挙げた。全日本室内テニス選手権で初優勝した1968年全豪選手権で2回戦に進出し、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本代表選手にも初めて選出された。坂井のテニス経歴が本格的に開花するのは、1971年からである。4月23日-25日にかけて、デ杯「東洋ゾーン」2回戦が東京の「田園コロシアム」(現在の有明コロシアム)で開かれ、日本はオーストラリアから50年ぶりの勝利を挙げた。坂井はシングルス戦2試合に勝利を収め、最終第5試合ではジョン・クーパー(往年の名選手アシュレー・クーパーの実弟)との2日がかりの日没順延試合を 6-1, 15-13, 8-6 で制した。この後4大大会にも遠征し、全仏オープンは2回戦敗退、ウィンブルドンは1回戦でフルー・マクミラン南アフリカ)に敗れたが、全米オープンで快進撃を見せる。1回戦でビタス・ゲルレイティス、2回戦でロス・ケースオーストラリア)を破った坂井は、3回戦で「空を飛ぶオランダ人」の異名を持つトム・オッカーに挑戦したが、第4シードの強豪に 1-6, 1-6, 1-6 のストレートで完敗した。

その後、坂井は1973年ウィンブルドン1974年全仏オープンで3回戦進出があった。1973年のウィンブルドン3回戦では、坂井はセンター・コートで第1シードのイリ・ナスターゼと対戦した。ナスターゼには 5-7, 2-6, 4-6 のストレートで敗れたが、ウィンブルドン選手権における日本人男子選手の活躍は1930年代前半の名選手たち以来であり、坂井は世界的にも高い評価を獲得した。1974年の全仏オープン3回戦では、坂井はブラジルトーマス・コッホに敗れている。日本人男子選手が全仏で活躍したのも、1938年全仏選手権で4回戦に進んだ中野文照以来であった。最後の4大大会挑戦は1975年全豪オープンで、坂井は1回戦でマーク・エドモンドソンに 1-6, 2-6, 6-1, 7-6, 4-6 で敗退した。

全日本テニス選手権では、坂井は1974年1975年の男子シングルス2連覇と、1971年-1976年までの男子ダブルス6連覇がある。男子ダブルスでは、1971年-1973年まで神和住純と組んで3連覇し、その後1974年-1976年まで平井健一と組んで3連覇を達成した。彼の時代から、日本テニス界は徐々に活気を取り戻してゆく。ほぼ同時代に活躍した沢松和子1975年ウィンブルドン女子ダブルス優勝を契機に、日本にもテニスブームが広がっていった。

現役引退後の坂井は、テニスコーチとして多方面にわたる活動を続けてきた。デビスカップフェドカップ代表チーム監督などの要職を歴任し、一時期は伊達公子のコーチを務めたこともある。テニスのレッスン書などの著書も多数ある。ウィンブルドン選手権のテレビ中継など、テレビのテニス番組で解説を担当することも多い。

2021年、旭日双光章受章[2]

脚注

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  1. ^ 2021年度入学式を執り行いました”. 早稲田大学. 2022年4月9日閲覧。
  2. ^ 『官報』号外第99号、令和3年4月30日

参考文献

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  • 日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(87ページ・179ページ)

外部リンク

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