吉良俊則
オリックス二軍(サーパス)時代 (2008年9月27日 阪神鳴尾浜球場) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大分県臼杵市 |
生年月日 | 1986年1月1日(38歳) |
身長 体重 |
180 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 2003年 ドラフト2巡目 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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吉良 俊則(きら としのり、1986年1月1日 - )は、大分県臼杵市出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴
[編集]プロ入り前
[編集]高校野球の強豪校である柳ヶ浦高等学校に入学。高校野球通算54本塁打を記録。2002年・2003年の全国高等学校野球選手権大会に大分県代表で出場したほか、3年時の2003年には主将を務めた。
2003年のドラフト会議で、大阪近鉄バファローズから2巡目で指名。契約金6,000万円、年俸600万円(金額は推定)という条件で入団した。
プロ入り後
[編集]2004年には、かねてから状態が思わしくなかった左肘を手術。一軍昇格の機会はなく、ウエスタン・リーグ公式戦での成績も、打率.250(12打数3安打)、1盗塁にとどまった。シーズン終了後には、近鉄がオリックス・ブルーウェーブと合併したため、分配ドラフトを経てオリックス・バファローズに移籍。近鉄への在籍は1シーズンだけに終わった。
2005年には、左肘のリハビリなどの影響で、一・二軍とも試合出場の機会がなかった。
2006年には、外野手登録ながら、一塁手・指名打者を中心にウエスタン・リーグ公式戦65試合に出場。プロ初本塁打を放ったほか、打率.265、14打点、1盗塁を記録した。
2007年には、前年と同様の起用法によって、ウエスタン・リーグ公式戦69試合に出場。打率.224、2本塁打、15打点、4盗塁という成績を残した。
2008年には、主に指名打者として、ウエスタン・リーグ公式戦61試合に出場。同リーグ選抜の一員として出場したフレッシュオールスターゲームでは、本塁打を放ったことで優秀選手賞を受賞した。しかし、10月3日に球団から戦力外通告を受けたことを機に退団。11月開催の12球団合同トライアウトに参加したが、どの球団からも獲得のオファーがなかったことから、一軍の公式戦へ出場できないまま現役を引退した。
現役引退後
[編集]トレーナーを養成する専門学校への進学[1]を経て、柔道整復師の国家試験に合格。卒業後の2011年から、2012年までは接骨院に勤務していた[2]。
2013年には、以上の経歴を買われて、古巣であるオリックス・バファローズのトレーナー(コンディショニング担当)へ就任[3]。同年1月の新人合同自主トレーニングから新人・若手選手を指導したほか、馬原孝浩のストレッチ[2]や、金子千尋・西野真弘のリハビリなども担当した[4]。
2015年限りで、オリックスを再び退団。2016年からは、福岡県筑紫野市内で「Kira接骨院」を開業している[4]。
人物
[編集]- 2003年のドラフト会議までは、西武ライオンズや福岡ダイエーホークスへの入団を希望していた。しかし、近鉄からの指名を受けて態度を一転。「(西武とダイエーに行けないことに)未練はありません」と語った。
- 「Kira接骨院」を開業直後の2016年1月12日には、福岡県北九州市にあるJR九州硬式野球部のグラウンドで、小松聖・白仁田寛和・佐野皓大(いずれもオリックス・バファローズ投手)と合同自主トレーニングを実施。その帰路に、住宅街の路上で自力で動けずにうずくまっていた96歳の女性を4人で救助した。女性は股関節付近を骨折していたが、救助後に病院で緊急手術を受けたため、生命に別状はなかった[5]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]- 一軍公式戦出場なし
背番号
[編集]- 39 (2004年)
- 63 (2005年 - 2008年)
脚注
[編集]- ^ 惜別球人
- ^ a b 「週刊ベースボール」 2013年11月11日号【2013ドラフト総決算号】ベースボール・マガジン社 JANコード:4910204421135
- ^ OBS大分放送ラジオ『廣道純のNever GiveUP!!』2013年1月12日放送分より
- ^ a b “オリックス金子も認める名トレーナー、福岡で踏み出した新たな一歩”. スポーツニッポン. (2016年6月16日) 2016年6月16日閲覧。
- ^ “小松&白仁田&佐野 自主トレ帰りに96歳女性救助していた”. スポーツニッポン. (2016年1月13日) 2016年6月16日閲覧。