原田清一
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原田 清一 | |
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生誕 |
1890年1月11日 日本 岩手県 |
死没 | 1972年10月20日(82歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1911年 - 1946年 |
最終階級 | 海軍中将 |
原田 清一(はらだ せいいち、1890年〈明治23年〉1月11日[1] - 1972年〈昭和47年〉10月20日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲二等[2]。
経歴
[編集]1890年(明治23年)、岩手県生まれ[1]。海軍兵学校第39期を1911年(明治44年)7月18日に卒業し[1][3]、1912年(大正元年)12月1日に海軍少尉に任官された[3]。1934年(昭和9年)8月25日に「襟裳」特務艦長に就任し[4]、11月15日に海軍大佐に進級した[4]。1935年(昭和10年)2月22日に横須賀鎮守府附となり[4]、5月25日に「夕張」艦長に就任した[4]。同年10月31日に軍令部出仕となり[4]、12月1日に海軍省軍事普及部第2課長に着任[4]。1937年(昭和12年)11月に大本営海軍報道部第3課長に転じ[4]、1938年(昭和13年)9月に「出雲」艦長[4]、1939年(昭和14年)11月に「日向」艦長を歴任した[4]。
1940年(昭和15年)11月15日に海軍少将進級と同時に佐世保人事部長兼佐世保鎮守府人事長に着任[1][4][2]。1942年(昭和17年)8月1日に興亜院厦門連絡部長官に就任し[1]、太平洋戦争に出征[1]。同年11月1日に厦門方面特別根拠地隊司令官に就任し[1]、1944年(昭和19年)5月に海軍中将に進級した[4]。1946年(昭和21年)3月10日に予備役に編入された[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
年譜
[編集]- 1911年(明治44年)7月18日 - 海軍兵学校卒業。宗谷乗組[2]
- 1912年(明治45年/大正元年)
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)5月26日 - 海軍水雷学校普通科学生[2]
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)12月1日 - 海軍大尉、海軍大学校航海学生[2]
- 1919年(大正8年)12月1日 - 浜風航海長兼分隊長[2]
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)
- 1921年(大正11年) - 5月30日龍田航海長兼分隊長[2]
- 1922年(大正12年) - 10月15日富士分隊長兼教官[2]
- 1923年(大正13年) - 12月1日海軍少佐、富士副官[2]
- 1924年(大正14年)
- 1925年(大正14年)
- 1928年(昭和3年)12月10日 - 赤城航海長兼分隊長[2]
- 1929年(昭和4年)11月30日 - 海軍中佐[2]
- 1930年(昭和5年)
- 1934年(昭和9年)11月15日 - 海軍大佐、襟裳特務艦長[2]
- 1935年(昭和10年)
- 1937年(昭和12年)11月20日 - 大本営海軍報道部第3課長[2]
- 1938年(昭和13年)9月1日 - 出雲艦長[2]
- 1939年(昭和14年)11月15日 - 日向艦長[2]
- 1940年(昭和15年)
- 1942年(昭和17年)
- 1944年(昭和19年)5月1日 - 海軍中将[6]
- 1946年(昭和21年)3月10日 - 予備役[6]
栄典
[編集]- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 福川 2000, 309頁.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 海軍歴史保存会 1995, 364頁.
- ^ a b 外山 1981, 154頁.
- ^ a b c d e f g h i j k l 外山 1981, 159頁.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」12頁。
- ^ a b c d 海軍歴史保存会 1995, 365頁.
- ^ 「畑俊六外七十二名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113475800
参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。ISBN 482950272X。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500034。
- 海軍歴史保存会 編集『日本海軍史 第9巻』海軍歴史保存会、1995年。