利用者:トムル
トムル | ||
---|---|---|
バベル | ||
| ||
居住地 | ||
|
トムル(Tomur)と申します。主に中国史・中央ユーラシア史を執筆していきたいと思います。
IP時代の新規作成
[編集]124.85.237.228
[編集]郡国制、郡県制、孝公 (秦)、ホラント伯、エノー伯、ブラバント公、和連、魁頭、歩度根、扶羅韓、泄帰泥、リンブルフの君主一覧、騫曼、蒲頭、鬱築ケン、夏舎
60.37.184.240
[編集]キョウ景、蹇碩、其至ケン、於仇賁、イラクの大統領、イラクの首相
124.85.42.108
[編集]フランス領インドシナ総督、パキスタンの首相 、ベトナムの首相、セルビアの大統領、セルビアの首相、クロアチアの大統領
124.100.246.64
[編集]甘夫人、護烏桓校尉、宇文部、拓跋沙漠汗、拓跋綽、宇文莫槐、宇文普撥、宇文丘不勤、拓跋悉鹿、拓跋禄官、拓跋猗イ、拓跋弗、拓跋鬱律、拓跋賀ル、宇文遜昵延、宇文乞得亀、拓跋翳槐、莫護跋、慕容木延、慕容渉帰、慕容耐、拓跋六脩、吐延、宇文逸豆帰、段蘭、段渉復辰、拓跋寔、拓跋寔君、平州、劉庫仁、劉眷、劉顕 (独孤部)、劉羅辰、独孤部、劉衛辰、劉務桓、劉虎 (鉄弗部)、呼徴、屠特若尸逐就単于、伊陵尸逐就単于、呼蘭若尸逐就単于、去特若尸逐就単于、烏稽侯尸逐テイ単于、車紐、萬氏尸逐侯テイ単于、亭独尸逐侯テイ単于、安国単于、休蘭尸逐侯テイ単于、使匈奴中郎将、伊屠於閭テイ単于、丘除車林テイ単于、ケイ僮尸逐侯テイ単于、伊伐於慮テイ単于、丘浮尤テイ単于、湖邪尸逐侯テイ単于、ケイ落尸逐テイ単于、須卜骨都侯単于、於除ケン、逢侯、頭曼単于、右谷蠡王単于、児単于、コウ犁湖単于、烏維単于、且テイ侯、劉閼頭、劉猛 (匈奴)、右北平郡、燕国、上谷郡
220.98.158.72
[編集]漁陽郡、狐鹿姑単于、壺衍テイ単于、昆莫、連休 (鮮卑)、劉建、山戎、莎車、焉耆、伊利可汗、乙息記可汗、木汗可汗、他鉢可汗、沙鉢略可汗、葉護可汗、阿史那菴羅、都藍可汗、達頭可汗、啓民可汗、始畢可汗、処羅可汗、莫何可汗、虚閭権渠単于、室点蜜、泥利可汗、阿波可汗、曷薩那可汗、射匱可汗、統葉護可汗、頡利可汗、車師
123.222.81.112
[編集]木骨閭、郁久閭車鹿会、郁久閭匹候跋、郁久閭ウンコツ提、郁久閭社崙、郁久閭斛律、郁久閭歩鹿真、郁久閭大檀、郁久閭呉提、郁久閭吐賀真、郁久閭予成、郁久閭豆崙、郁久閭那蓋、郁久閭伏図、郁久閭醜奴、郁久閭阿那カイ、郁久閭婆羅門、莫賀咄侯屈利俟毘可汗、肆葉護可汗、咄陸可汗、郁久閭鉄伐、郁久閭登注、郁久閭庫提
220.98.169.14
[編集]アカウント取得後の新規作成
[編集]遼西郡、乙毘沙鉢羅葉護可汗、乙毘射匱可汗、阿史那賀魯、柳城郡、乙毘咄陸可汗、乙屈利失乙毘可汗、ヤブグ、阿史那歩真、阿史那弥射、悦般、突利可汗、阿史那思摩、車鼻可汗、阿史那泥孰匐、阿史那伏念、阿史那骨咄禄、阿史那默啜、薛延陀部、バクトリア、握衍クテイ単于、屠耆単于、呼掲単于、烏藉単于、車犁単于、閏振単于、伊利目単于、復株累若テイ単于、捜諧若テイ単于、車牙若テイ単于、烏珠留若テイ単于、烏累若テイ単于、呼都而尸道皐若テイ単于、イクケン左賢王単于、須卜単于、蒲奴、ケイ賓、姑墨、康叔、頃侯 (衛)、釐侯 (衛)、共伯 (衛)、武公 (衛)、荘公揚、桓公 (衛)、州吁、宣公 (衛)、恵公 (衛)、黔牟、戴公 (衛)、宣姜、文公 (衛)、成公 (衛)、穆公 (衛)、定公 (衛)、献公 (衛)、白眉可汗、殤公 (衛)、襄公 (衛)、霊公 (衛)、出公 (衛)、武公 (斉)、レイ公 (斉)、文公 (斉)、釐公 (斉)、襄公 (斉)、襄公 (秦)、文公 (秦)、寧公 (秦)、出子 (秦)、武公 (秦)、徳公 (秦)、宣公 (秦)、成公 (秦)、共公 (秦)、桓公 (秦)、秦仲、荘公 (秦)、衛君起、悼公 (衛)、昭公 (衛)、成侯 (衛)、嗣君 (衛)、懐君 (衛)、元君 (衛)、君角、斑師、景公 (秦)、哀公 (秦)、恵公 (春秋秦)、悼公 (秦)、レイ共公 (秦)、躁公 (秦)、懐公 (秦)、霊公 (秦)、簡公 (秦)、恵公 (戦国秦)、出公 (秦)、献公 (秦)、張奐、桓公 (鄭)、荘公 (鄭)、共叔段、昭公 (鄭)、レイ公 (鄭)、子ビ、鄭子 (鄭)、荘公カイカイ、文公 (鄭)、襄公 (鄭)、悼公 (鄭)、成公 (鄭)、釐公 (鄭)、マッサゲタイ、ディオドトス2世、エウテュデモス1世、デメトリオス1世 (バクトリア王)、ヴィマ・タクト、ヴィマ・カドフィセス、エウクラティデス1世、ダアイ、イッセドネス人、ブディノイ、サウロマタイ、アンドロパゴイ、メランクライノイ、ネウロイ、アルギッパイオイ、アガテュルソイ、タウロイ、ゲロノイ、懐仁可汗、葛勒可汗、牟羽可汗、合骨咄禄毘伽可汗、カルルク、忠貞可汗、奉誠可汗、頡干迦斯、懐信可汗、滕里野合倶録毘伽可汗、保義可汗、オグズ、アオルソイ、ゲタイ、崇徳可汗、昭礼可汗、彰信可汗、コウソウ特勤、烏蘇米施可汗、カラ・バルガスン遺跡、アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン、チョイレン銘文、セルゲイ・グリゴリエヴィチ・クリャシュトルヌィ、ブグト碑文、突厥碑文、バイン・ツォクト碑文、ホショ・ツァイダム碑文、毘伽可汗、伊然可汗、登利可汗、烏介可汗、英義可汗、狄銀、代郡、遏捻可汗、林俊雄、甘州ウイグル王国、特健俟斤、菩薩 (ウイグル)、吐迷度、烏コツ、婆閏、骨咄葉護、比粟毒、安西大都護府、伊吾、無弋爰剣、忍 (羌)、テン良、テン吾、迷吾、迷唐、メルキト (曖昧さ回避)、キジル石窟、クムトラ石窟、インド・スキタイ王国、安北大都護府、燕然都護府、ムハンマド・シャイバーニー・ハーン、ジャーン朝、清浄の園、吐火仙、蒙古源流、ユリウス・ハインリヒ・クラプロート、アルタン・ハーン伝、阿史那結社率、薛延陀、骨利幹、烏質勒、娑葛、蘇禄、莫賀達干 (突騎施)、テキ斌、テキ真、シラ・トージ、アサラクチ史、アルタン・トプチ (著者不明)、アルタン・トプチ (ロブサンダンジン)、チャガン・テウケ、ガンガイン・ウルスハル、鉄弗部、テキ成、テキショウ、郁久閭鄧叔子、郁久閭菴羅辰、イェニセイ碑文、闕特勤、モンゴルの歴史、バートル・ホンタイジ、ジャライト、ドルベト、ドルベト (モンゴル)、ゴルロス、ハラチン、トゥメト、マンドゥールン・ハーン、バヤン・モンケ・ボルフ晋王、エンケ・ハーン、グン・ビリク・メルゲン晋王、バルス・ボラト・サイン・アラク晋王、ウルス・ボラト晋王、ノヤンダラ晋王、ボショクト晋王ハーン、セレン・エルデニ晋王ハーン 、ボディ・アラク・ハーン、ダライスン・ゴデン・ハーン、トゥメン・ジャサクト・ハーン、ブヤン・セチェン・ハーン、オイラダイ・ハーン、ダルバク・ハーン、アクバルジ晋王、ファールス (イラン)、契丹国志、トンビナイ・セチェン、阿史那斛瑟羅、阿史那懐道、阿史那昕、阿史那献、阿史那元慶、カブル・カン、アンバガイ・カン、クトラ・カン、キヤト氏、タタル部、ジャライル、トクトア・ベキ、カンクリ、サランディ・テギン、オグルンチ・テギン、マムラク・テギン、アガチェリ、オグズ・ナーメ、九姓タタル、キダーラ朝、[[]]、[[]]
新規テンプレート
[編集]Template:モンゴルの歴史、Template:満州の歴史
新規画像
[編集]大幅加筆
[編集]東胡、戎、匈奴、シツ支単于、南匈奴、羌渠、於夫羅、呼廚泉、去卑、烏桓、鮮卑、檀石槐、軻比能、拓跋部、拓跋力微、慕容カイ、慕容コウ、慕容儁、慕容宝、慕容盛、慕容熙、宇文莫圭、段疾陸眷、拓跋猗盧、拓跋什翼犍、柔然、高車、鉄勒、突厥、東突厥、西突厥、ウテュケン山、ウイグル、回鶻、バイ・バリク、オルド・バリク、亀茲、西域、大宛、康居、月氏、烏孫、大夏、トハラ人、サカ、ソグド人、グレコ・バクトリア王国、インド・グリーク朝 、エフタル、ユウ婁、勿吉、旧唐書、大唐西域記、宋史、室韋、豆莫婁、烏洛侯、奚、アヴァール、ペチェネグ、高昌、冉魏、靺鞨、東夷伝、夫余、チャン族、トカラ語、武都郡、東夷、羌、集史、葷粥、スキタイ、代 (五胡十六国)、明史、堅昆、キルギス人、テュルク系民族、シャイバーニー朝、アブール=ハイル・ハーン (シャイバーニー朝)、ブハラ・ハン国、髑髏杯、カザフ・ハン国、宮脇淳子、モンゴル系民族、ジュンガル、ホシュート、グーシ・ハーン、トルグート、ナイマン、タタール、契丹、ハルハ、ツングース系民族、ニヴフ、ホルチン、メルキト、テキ遼、丁零、テキ魏、契丹文字、ハザール、キンメリア人、キプチャク、中央アジア、ガルダン・ハーン、ホルチン、マルコルギス・ハーン、モーラン・ハーン、リンダン・ハーン、オルク・テムル、タヤン・カン、チャハル、カガン、単于、天山ウイグル王国、新元史、唐会要、イェスゲイ、カザフスタン、ジョチ・ウルス、モンゴル系民族、サルマタイ、ティリダテス1世、アルサケス2世、プリアパティオス、フラーテス1世、ミトラダテス1世、フラーテス2世、アルタバノス1世、ミトラダテス2世、ゴタルゼス1世、オロデス1世、シナトルケス、フラーテス3世、ミトラダテス3世、オロデス2世、フラーテス4世、突騎施、ヨスン・テムル、ケスメズ、バルチュク・アルト・テギン、[[]]、[[]]、[[]]、
書き方メモ
[編集]引用文
[編集]{{ quotation|本文|出典 }}
その王、寄多羅(キダーラ)は勇武で兵を起こして大山(ヒンドゥークシュ山脈)を超え、南の北天竺に侵攻し、乾陁羅(ガンダーラ)より北五国を役属した。
— 『魏書』列伝第九十西域 大月氏国
脚注の書き方
[編集]
その存在は中国の歴史書(『[[魏書]]』、『[[北史]]』)や、[[プリスクス]]による記述、西北インド出土の[[コイン]]などの断片的なものでしか知りえることができない{{sfn|山田|1963|p=613}}。
4世紀半ばに[[キダーラ]]という者が[[匈奴]]([[フン族]])とともにバクトリアに移住したと推定される{{sfn|影山|2015|p=37}}。
[[402年]]以後{{Refnest|group="注釈"|キダーラは,その勃興年代に関する大きな議論があり,未だ決着を見ていない。『魏書』西域伝にキダーラがトハーリスターンからインド方面へと展開したことが記されており,これが457年(あるいは437年)にもたらされた情報であることから,文献を重視する研究者は,この集団が勃興・展開したのは5世紀以降のことであると考える。一方,貨幣を重視する研究者は,カーブル近郊のテペ・マラーンジャーンで出土した一括埋納貨幣において,4世紀のサーサーン朝の諸王の貨幣と共伴する金貨の銘文をキダーラと読み,その勃興年代を4世紀後半とする。両説の当否は判明していないが,貨幣の銘文の読みに疑問が呈されていることから,後者の説を今後再検討しなければならない。}}{{sfn|宮本|2019}}、
440年頃{{sfn|影山|2015|p=37}}、キダーラは[[ヒンドゥークシュ山脈]]を越え、[[ガンダーラ]]以北の5国を支配下に置く{{sfn|山田|1963|p=617}}。
[[エフタル]]の侵攻に遭い、バクトリアが占領され、キダーラは西へ逃れて[[カスピ海]]沿岸に別の亡命政権を建てる{{sfn|山田|1963|p=617}}。エフタルの侵攻を免れた西北インドの勢力は小月氏国となり、キダーラの子が統治する{{sfn|山田|1963|p=617}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考資料 ==
* 山田明爾『キダーラ・クシヤーンについて』(印度學佛教學研究11巻2号(通号22) 1963年3月)
* 宮本亮一(AA研共同研究員,京都大学)「クシャーンからエフタルへ:中央アジアから南アジアへの人間集団の移動」(「「インド世界」の形成 フロンティア地域を視座として」(令和元年度第1回研究会))
== 外部リンク ==
* {{Cite journal |和書 |author=宮本亮一 |authorlink= |title=クシャーンからエフタルへ:中央アジアから南アジアへの人間集団の移動 |journal=「「インド世界」の形成 フロンティア地域を視座として」 |volume= |issue= |publisher=令和元年度第1回研究会 |date=2019-09-16 |pages= |naid= |ref={{SfnRef|宮本|2019}}}}
* {{cite journal|和書|author=影山悦子|title=ユーラシア東部における佩刀方法の変化について : エフタルの中央アジア支配の影響|journal=内陸アジア言語の研究|issn=13415670|publisher=中央ユーラシア学研究会|volume=30|pages=29-47|date=2015-07-25|crid=1050845762635259904|naid=120006492361|ref={{SfnRef|影山|2015}}}}
その存在は中国の歴史書(『魏書』、『北史』)や、プリスクスによる記述、西北インド出土のコインなどの断片的なものでしか知りえることができない[1]。
4世紀半ばにキダーラという者が匈奴(フン族)とともにバクトリアに移住したと推定される[2]。
440年頃[2]、キダーラはヒンドゥークシュ山脈を越え、ガンダーラ以北の5国を支配下に置く[4]。
エフタルの侵攻に遭い、バクトリアが占領され、キダーラは西へ逃れてカスピ海沿岸に別の亡命政権を建てる[4]。エフタルの侵攻を免れた西北インドの勢力は小月氏国となり、キダーラの子が統治する[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ キダーラは,その勃興年代に関する大きな議論があり,未だ決着を見ていない。『魏書』西域伝にキダーラがトハーリスターンからインド方面へと展開したことが記されており,これが457年(あるいは437年)にもたらされた情報であることから,文献を重視する研究者は,この集団が勃興・展開したのは5世紀以降のことであると考える。一方,貨幣を重視する研究者は,カーブル近郊のテペ・マラーンジャーンで出土した一括埋納貨幣において,4世紀のサーサーン朝の諸王の貨幣と共伴する金貨の銘文をキダーラと読み,その勃興年代を4世紀後半とする。両説の当否は判明していないが,貨幣の銘文の読みに疑問が呈されていることから,後者の説を今後再検討しなければならない。
出典
[編集]参考資料
[編集]- 山田明爾『キダーラ・クシヤーンについて』(印度學佛教學研究11巻2号(通号22) 1963年3月)
- 宮本亮一(AA研共同研究員,京都大学)「クシャーンからエフタルへ:中央アジアから南アジアへの人間集団の移動」(「「インド世界」の形成 フロンティア地域を視座として」(令和元年度第1回研究会))
外部リンク
[編集]- 宮本亮一「クシャーンからエフタルへ:中央アジアから南アジアへの人間集団の移動」『「「インド世界」の形成 フロンティア地域を視座として」』、令和元年度第1回研究会、2019年9月16日。
- 影山悦子「ユーラシア東部における佩刀方法の変化について : エフタルの中央アジア支配の影響」『内陸アジア言語の研究』第30巻、中央ユーラシア学研究会、2015年7月25日、29-47頁、CRID 1050845762635259904、ISSN 13415670、NAID 120006492361。