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上田鳳陽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
上田 鳳陽
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 1769年明和6年)
死没 1854年1月6日嘉永6年12月8日
改名 纉明、字:恭述、通称:幾之允、茂右衛門
墓所 山口県山口市乗福寺[1][2]
官位正五位
主君 毛利重就毛利治親毛利斉房毛利斉熙毛利斉元毛利斉広毛利敬親
長州藩
父母 父:宮崎在政、養父:上田清房
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上田 鳳陽(うえだ ほうよう、1769年明和6年 - 1854年1月6日嘉永6年12月8日》)は、江戸時代中期〜後期の儒学者国学者山口大学建学の祖。名は、上田茂右衛門纉明(もうえもんつぐあき)。

経歴・人物

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1769年(明和6年)、長州藩の下級藩士であった宮崎猪兵衞在政(みやざき いひょうえありまさ)の三男として現在の山口市大内氷上で生まれる[3][4]。幼少の頃、上田平右衛門清房の養子となり、清房亡き後、跡を継ぐ。幼い頃から学問が好きで山口では文学を学ぶ。1800年寛政12年)11月、32歳の時、藩校明倫館に入学(当時の学友として山県太華中村牛荘がいる)。藩費生の待遇を受けると共に3年という規定年数を超えて、修学し、1809年文化6年)まで儒学国学を学ぶ。同年11月、修学を終えて萩から山口に帰郷。山口に学問所が無かった事から、藩士の教育を受ける場所として、1815年(文化12年)、47歳の時、学問所として山口講堂(現・山口大学の淵源)を開設。その貢献は藩主に大いに認められ、中級武士に昇格し、研究専念のため儒役に就く。

晩年

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山口講堂開設後、経営を門人に委ね、明倫館に再入学し、主に大黒屋本と称される書籍を研究。一年程後、山口に戻り、山口講堂を経営。1834年天保5年)、藩主毛利敬親より自筆の聖号を下賜され、紋章入りの茶地金蘭織の布を与えられる。後に山口講堂に納め、志ある人々に礼拝を許した。1854年1月6日嘉永6年12月8日)、85歳で他界。

大正4年(1915年)、正五位を追贈された[5]

人柄

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読書家であり、特に古文書・古器物に関して造形を深めた。又、情に篤い人柄である。懐かしい友人が訪ねてきた折には、ご馳走等でもてなした。帰りは後ろ姿を見えなくなるまで送り続けたといわれている[6][1][4]

鳳陽忌

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  • 毎年の命日には、「鳳陽忌」と称して、乗福寺にて山口大学学長を始め、理事鳳陽会の有志が集まり、座禅を組み、山口大学の祖として厳粛に供養を行なっている[7]。また新年の御墓参りを行い、山口大学の更なる飛躍を願い、学長自ら気持ちを新たに一年を迎えている。時期をはかり、御墓の世話等を行なっている[2]

関連項目

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脚注・リンク

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  1. ^ a b 上田鳳陽先生 ふるさと大内、山口市立大内小学校 2018年7月31日閲覧。
  2. ^ a b 上田鳳陽先生のお墓の塀を修復しました 山口大学 2018年7月31日閲覧。
  3. ^ 上田鳳陽書 デジタルミュージアム 2018年7月31日閲覧。
  4. ^ a b 「上田鳳陽」先生のこと。 一般社団法人鳳陽会 2018年7月31日閲覧。
  5. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.37
  6. ^ 建学の祖 上田鳳陽 山口大学(『山口大学の来た道』1 山口講堂から山口中学へ) 2018年7月31日閲覧。
  7. ^ 上田鳳陽先生の命日を偲ぶ「鳳陽忌」を行いました 山口大学 2018年7月31日閲覧。