三英傑
三英傑(さんえいけつ)、もしくは郷土三英傑・戦国三英傑[1]は、現在の愛知県(当時は尾張国と三河国)出身で特に名古屋にゆかりがあり、戦国時代の日本において天下統一を主導した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の戦国大名を、主に後世(#概念の成立を参照)の中部地方や愛知県で顕彰する呼称。口語では戦国の三傑が用いられる。名古屋まつりでは毎年、この3人にちなんで郷土英傑行列が行われている。
概念の成立
[編集]江戸時代までは尾張と三河を一体視する考え方は無く、また江戸時代に「神君」とされた家康と他の二者を一緒くたに語るのは困難であったことから、「三英傑」概念の成立は明治時代まで下る[2]。ただし、嘉永5年(1852年)小田切春江著『尾張英傑画伝』では、三英傑の3人に源頼朝と足利尊氏を加えて「草創五君」と呼び[注 1]、信長・秀吉及びその麾下の武将たちを含めて「日本の英雄」の多くが尾張から出たと記し、三英傑のイメージの一部を提供したのが読み取れる。三英傑を取り上げた最初の書物は、明治12年(1879年)成立の水谷民彦『三傑年譜』全30巻とみられる。ただし、水谷はあくまで尊王の観点から3人を取り上げており、『三傑年譜』も写本でしか伝わっていないことから影響力も少なかったとみられる。次いで注目すべきは、在京愛知県出身者によって編集された雑誌『愛知学芸雑誌』創刊号に、地理学者・志賀重昂がよせた論考である。志賀はここで愛知の地理的一体性を強調し、その地理的環境が幾多の英雄を生み出したが、その代表的存在が三英傑であり、彼らを顧みることで県民の奮起を促している。一方言論だけでなく、清須・中村・岡崎における史蹟公園の整備というかたちで県民の教化が進められている。昭和11年(1936年)には名古屋の財界人・文化人たちが「三傑会」を結成し、東京と大阪に経済的・文化的に対抗する意味が込められた[要出典]。翌年の名古屋汎太平洋平和博覧会の会場に設けられた「歴史館」では、入口には三英傑の等身大木造が置かれ、建勲神社・豊国神社・東照宮が分祠され、ジオラマによって三英傑の活躍が再現された[要出典]。更に博覧会に合わせて「三傑節」が作られ、日本ポリドール社からレコードも販売された[要出典]。
こうして戦前までに、信長・秀吉・家康を並列的に「郷土の英傑」として讃える見方が定着した。昭和30年(1955年)には名古屋まつりに「郷土英雄行列」が登場し、現在も続いている(後述)。
なお、「三英傑」という言葉は、東海三県では通じるが、西側は岐阜県と滋賀県の県界線、東側は静岡県の掛川市あたりまでしか通じにくい[3]。
天下餅
[編集]当時三英傑という呼称は無かったものの、天下人の座を受け継いだ三人を一まとめにする考え方は江戸時代から存在した。天保 - 嘉永期に「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」という狂歌が流布され[4]、歌川芳虎によって錦絵も描かれた[5]。ただしこの絵には明智光秀も含まれている[注 2]。
ホトトギスの喩え
[編集]三英傑の性格を、鳴かないホトトギスをどうするかという題材で後世の人が言い表している(それぞれ本人が実際に詠んだ句ではない)。これらの川柳は江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える(q:時鳥#川柳)。
以下に引用とその解釈を記す。
- 「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
- この句は、織田信長の短気さと気難しさを表現している。
- 「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
- この句は、豊臣秀吉の好奇心旺盛なひとたらしぶりを表現している。
- 「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)
- この句は、徳川家康の忍耐強さを表している。
三英傑を全て演じた人物
[編集]2019年現在で 6人いる。以下に三英傑を全て演じた年代順に並べた。複数作品で同一の英傑を演じている場合は最初の一作のみを記す。太字は主演作である。
- 津川雅彦
- 松方弘樹
- 1987年 - TBS/大型時代劇スペシャル『太閤記』(信長役)
- 1988年 - TBS/大型時代劇スペシャル『徳川家康』(家康役)
- 1995年 - TBS/大型時代劇スペシャル『愛と野望の独眼竜 伊達政宗』(秀吉役)
- 中村橋之助(3代目)[注 6]
- 1988年 - NHK/大河ドラマ『武田信玄』(家康役)
- 2006年 - テレビ朝日/火曜時代劇『太閤記〜天下を獲った男・秀吉』(秀吉役)
- 2009年 - 映画『GOEMON』(信長役)
- 竹中直人
- 1995年 - テレビ東京/新春ワイド時代劇『豊臣秀吉 天下を獲る!』(家康役)
- 1996年 - NHK/大河ドラマ『秀吉』(秀吉役)
- 2014年 - NHK/大河ドラマ『軍師官兵衛』(秀吉役)
- 2016年 - NHK BSプレミアム/プレミアムよるドラマ『最後のレストラン』[注 7](信長役)
- 2020年 - ゲーム『仁王2』(秀吉役)
- 置鮎龍太郎
以下は三英傑を二役まで演じた俳優の一覧(太字はこれから全て演じる可能性のある存命人物)。
- 芦田伸介、嵐寛寿郎、伊勢谷友介、市川右太衛門、市川莚十郎、市川左團次 (3代目)、大河内傳次郎、岡田英次、尾上松之助、織田政雄、香川良介、風間杜夫、勝新太郎、観世栄夫、北村和夫、北大路欣也、木村拓哉、佐藤允、佐藤慶、椎名桔平、実川延松、進藤英太郎、高橋英樹、中村嘉葎雄、中村勘三郎 (17代目)、仲村トオル、西田敏行、西村晃、林隆三、東野英治郎、藤木直人、藤田まこと、宗春太郎[注 8]、森繁久彌、役所広司、三船敏郎、山﨑努、山城新伍、山村聰、市村正親
名古屋まつり
[編集]愛知県名古屋市が毎秋行う名古屋まつりでは、三英傑を主役とする祭りが盛大に行われる。三英傑はほぼ毎年公募され、そのうち織田信長役の志望者は乗馬ができることが要求される。名古屋まつりで三英傑を演じた者のOB会があり、英傑会と名乗っている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 源頼朝の母は熱田神宮大宮司であった藤原季範の娘であり、頼朝は尾張熱田の季範の別邸(現誓願寺)で生まれたとされる。足利尊氏は先祖の足利義康が季範の孫娘を娶っており、その子孫にあたる。
- ^ 木瓜紋が信長を、桔梗紋が光秀を、猿顔が秀吉を表し、残る竜頭の兜を被った人物が家康ということになる(『藤岡屋日記』)。
- ^ 同年公開の映画『殉教血史 日本二十六聖人』でも秀吉役を演じており、公開月の早い方を最初の一作目とした。
- ^ 二部構成の作品であり、第一部の青年期のみを演じ壮年期以降は役を交代している。壮年期以降を含めて信長役を演じた初の作品は、1982年のフジテレビ新春ドラマスペシャル『戦国の女たち』となる。
- ^ 2000年の大河ドラマ『葵 徳川三代』では主演として再び家康役を演じている。
- ^ 現在は「中村芝翫」を襲名しているが、三英傑を全て演じたのは「中村橋之助」名義の時代であるので、こちらの名前で記す。
- ^ 第1話でのゲスト出演。
- ^ 香川良介の息子にあたる子役俳優であり、出演作での役名は「吉法師」「松平竹千代」と、演じた二役はいずれも幼少期時代の役である。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 木村慎平 「『郷土の三英傑』の成立」「三英傑と名古屋」展実行委員会編集・発行 『平成26年度名古屋市博物館特別展 三英傑と名古屋』 2014年10月24日、pp.139-143