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金光庸夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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金光 庸夫
かねみつ つねお
1932年(昭和7年)頃
生年月日 1877年3月13日
出生地 大分県
没年月日 (1955-03-05) 1955年3月5日(77歳没)
前職 大正生命保険初代社長
王子電気軌道社長
所属政党 (立憲政友会→)
政友本党→)
立憲政友会→)
翼賛政治会→)
日本進歩党→)
(無所属→)
吉田自由党
親族 長男・金光義邦
女婿・佐藤一郎
女婿・熊谷典文
孫・佐藤謙一郎

日本の旗 第16代 拓務大臣
内閣 阿部内閣
在任期間 1939年8月30日 - 1940年1月16日

日本の旗 第7代 厚生大臣
内閣 第2次近衛内閣
在任期間 1940年9月28日 - 1941年7月18日

選挙区 大分県第1区
当選回数 1回
在任期間 1953年4月20日 - 1955年1月24日

日本の旗 衆議院議員
選挙区 大分県第2区
当選回数 8回
在任期間 1920年5月11日 - 1946年5月24日
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金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年明治10年)3月13日 - 1955年昭和30年)3月5日)は、日本政治家実業家拓務大臣厚生大臣をつとめた。名前の「庸夫」は「やすお」とも読まれる。

経済企画庁長官を務めた佐藤一郎及び通産事務次官を務めた熊谷典文は女婿、佐藤の長男で衆議院議員を務めた佐藤謙一郎は孫にあたる。

来歴・人物

大分県生まれ。高等小学校を卒業後税務官吏となり、長崎税関、福岡税務署長、熊本税務監督局勤務を経て、1908年(明治41年)鈴木商店に入社する。1913年(大正2年)には大正生命保険(現・プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)を創設、社長となる。その他日本火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)役員、王子電気軌道(現・都電荒川線)社長など多数の企業の社長・役員を兼任し、東京商業会議所副会頭や、1931年(昭和6年)には国際労働会議の資本家代表も務めた。また、法政大学の理事に就任[1](昭和15年)するなど、大学事業への運営にも寄与した。

1920年(大正9年)の第14回総選挙政友会公認で旧大分2区からに立候補し当選、以後当選10回を数える。一時期政友本党に籍を置いたのち政友会に復帰し、1937年(昭和12年)衆議院副議長。1939年(昭和14年)には阿部内閣拓務大臣を拝命して初入閣する。同年の政友会分裂に際しては太田正孝犬養健とともに中立派(金光派)を形成する。その近衛文麿新体制運動に協力し、1940年(昭和15年)6月10日には陸軍省軍務局長の武藤章と会談し軍部の諒解を取り付ける。

新体制準備委員会委員を経て、第2次近衛内閣厚生大臣となり、国民優生法を施行したり[2]生活必需物資統制令に基づき衛生材料生産配給統制規則を制定した[3]。以後、大日本産業報国会初代総裁[4]大政翼賛会顧問、同調査会長、翼賛政治会政務調査会長、大日本政治会総務会長などを務める。

戦後は日本進歩党の結成に関わるが、間もなく公職追放となる。追放中は長男の義邦が身代わりで総選挙に立候補し当選、代議士を3期務める。追放解除後の1953年(昭和28年)第26回総選挙吉田自由党の公認で立候補し当選、同党顧問を務める。1954年に尾崎行雄(尾崎咢堂)が死去した際には、金光が11月30日の衆議院本会議に於いて尾崎に対する追悼演説を行った[5]

1955年2月の第27回総選挙に出馬したが落選し、同年3月5日に死去、満77歳だった。

脚注

  1. ^ 『法政大学校友名鑑』(1941)
  2. ^ 1940年5月1日官報
  3. ^ 1941年5月7日官報
  4. ^ 役員を正式に任命、総裁は金光厚相(『中外商業新聞』昭和15年11月24日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p427 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  5. ^ 第20回国会 本会議 第1号 衆議院会議録 1954年11月30日

参考文献

外部リンク


議会
先代
岡田忠彦
日本の旗 衆議院副議長
第26代:1937年 - 1939年
次代
田子一民
先代
大口喜六
日本の旗 衆議院予算委員長 次代
小川郷太郎
公職
先代
安井英二
日本の旗 厚生大臣
第7代:1940年 - 1941年
次代
小泉親彦
先代
小磯国昭
日本の旗 拓務大臣
第16代:1939年 - 1940年
次代
小磯国昭
ビジネス
先代
井上篤太郎
京王電気軌道社長
1935年 - 1937年
次代
穴水熊雄