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牧野 康重(まきの やすしげ、延宝5年9月22日(1677年10月18日) - 享保7年11月28日(1723年1月4日))は、越後与板藩の第3代藩主、信濃小諸藩の初代藩主。越後長岡藩分家牧野家3代。 下野足利藩主(のち常陸笠間藩主)本庄宗資の五男。母は(五摂家・二条家の家司)の娘。正室は小倉藩主小笠原忠雄の娘(小倉新田藩主・小笠原真方の養女)。子に康周(長男)、(次男、六角広豊の養子)、(四男)、娘(柳生俊峯正室のち水野忠之正室のち室)、娘(小笠原定政正室)。官位は従五位下、周防守。 幼名は伊弥吉。通称は大蔵。先代藩主牧野康道の長男の康澄が早世したため、貞享5年(1688年)7月29日に康道の養嗣子となる。元禄2年(1689年)7月3日の康道の隠居により跡を継いだ。元禄9年(1696年)12月22日に叙任する。元禄15年(1702年)9月12日、5000石加増の上で信濃小諸藩に移封された。享保7年(1722年)11月28日に死去し、跡を長男の康周が継いだ。

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  • 牧野 康重(まきの やすしげ、延宝5年9月22日(1677年10月18日) - 享保7年11月28日(1723年1月4日))は、越後与板藩の第3代藩主、信濃小諸藩の初代藩主。越後長岡藩分家牧野家3代。 下野足利藩主(のち常陸笠間藩主)本庄宗資の五男。母は(五摂家・二条家の家司)の娘。正室は小倉藩主小笠原忠雄の娘(小倉新田藩主・小笠原真方の養女)。子に康周(長男)、(次男、六角広豊の養子)、(四男)、娘(柳生俊峯正室のち水野忠之正室のち室)、娘(小笠原定政正室)。官位は従五位下、周防守。 幼名は伊弥吉。通称は大蔵。先代藩主牧野康道の長男の康澄が早世したため、貞享5年(1688年)7月29日に康道の養嗣子となる。元禄2年(1689年)7月3日の康道の隠居により跡を継いだ。元禄9年(1696年)12月22日に叙任する。元禄15年(1702年)9月12日、5000石加増の上で信濃小諸藩に移封された。享保7年(1722年)11月28日に死去し、跡を長男の康周が継いだ。 (ja)
  • 牧野 康重(まきの やすしげ、延宝5年9月22日(1677年10月18日) - 享保7年11月28日(1723年1月4日))は、越後与板藩の第3代藩主、信濃小諸藩の初代藩主。越後長岡藩分家牧野家3代。 下野足利藩主(のち常陸笠間藩主)本庄宗資の五男。母は(五摂家・二条家の家司)の娘。正室は小倉藩主小笠原忠雄の娘(小倉新田藩主・小笠原真方の養女)。子に康周(長男)、(次男、六角広豊の養子)、(四男)、娘(柳生俊峯正室のち水野忠之正室のち室)、娘(小笠原定政正室)。官位は従五位下、周防守。 幼名は伊弥吉。通称は大蔵。先代藩主牧野康道の長男の康澄が早世したため、貞享5年(1688年)7月29日に康道の養嗣子となる。元禄2年(1689年)7月3日の康道の隠居により跡を継いだ。元禄9年(1696年)12月22日に叙任する。元禄15年(1702年)9月12日、5000石加増の上で信濃小諸藩に移封された。享保7年(1722年)11月28日に死去し、跡を長男の康周が継いだ。 (ja)
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  • 牧野 康重(まきの やすしげ、延宝5年9月22日(1677年10月18日) - 享保7年11月28日(1723年1月4日))は、越後与板藩の第3代藩主、信濃小諸藩の初代藩主。越後長岡藩分家牧野家3代。 下野足利藩主(のち常陸笠間藩主)本庄宗資の五男。母は(五摂家・二条家の家司)の娘。正室は小倉藩主小笠原忠雄の娘(小倉新田藩主・小笠原真方の養女)。子に康周(長男)、(次男、六角広豊の養子)、(四男)、娘(柳生俊峯正室のち水野忠之正室のち室)、娘(小笠原定政正室)。官位は従五位下、周防守。 幼名は伊弥吉。通称は大蔵。先代藩主牧野康道の長男の康澄が早世したため、貞享5年(1688年)7月29日に康道の養嗣子となる。元禄2年(1689年)7月3日の康道の隠居により跡を継いだ。元禄9年(1696年)12月22日に叙任する。元禄15年(1702年)9月12日、5000石加増の上で信濃小諸藩に移封された。享保7年(1722年)11月28日に死去し、跡を長男の康周が継いだ。 (ja)
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