明知遠山氏(あけちとおやまし)は、藤原利仁を祖とする加藤氏一門の美濃遠山氏の分家。 鎌倉時代の初期に遠山景朝の次子の遠山景重(三郎兵衛)が遠山荘のを相続し明知城を拠点としたのが始まりで廃藩置県まで、ほぼ同じ地域を支配した数少ない武家である。 戦国時代末期に、遠山利景は武田勝頼の家臣山県昌景の侵攻により失領。その後一旦領地を取り戻したものの本能寺の変後に、羽柴秀吉の麾下の森長可からの圧迫により明知城を出て三河へ移り徳川家康の麾下に入った。 その後東軍に参加し関ヶ原の戦いにおける前哨戦の、木曽・東濃の戦いにおいて西軍の諸将を撃破して明知城を奪還した。 その功績により江戸時代になって旧領を回復し、幕府の6531石の交代寄合(参勤交代を行う旗本)となり、明知城を廃して明知陣屋を本拠地としたが、5代の遠山伊清の時に江戸常駐の旗本寄合席となり、明知陣屋を代官の村上氏に任せて明治2年の版籍奉還まで続いた。 菩提寺は岐阜県恵那市明智町にある龍護寺で、江戸時代以降の明知遠山氏累代の墓が現存する。