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[[image:Dress_of_Oji_and_Aji.jpg|thumb|按司。右が大礼服、左が通常服の姿。]]
[[画像:GusukuWall.jpg|thumb|right|グスク跡]]
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=== 第二尚氏王統(1470年~1879年)===
[[File:Naha Shuri Castle16s5s3200.jpg|right|250px|thumb|地方の諸按司は首里城下に住むようになった。|左]]
[[第二尚氏王統]]第三代国王・[[尚真王]](在位[[1476年]] - [[1526年]])は、中央集権化政策の一環として、各地方に住む諸按司を集めて、[[首里]]に住むように制度を改めた。按司の代わりには、按司掟(あじうっち)と呼ばれる代官を派遣して、地方の政務に当たらせることにした。この時を境にして、按司は地方豪族の首長から首里に住む都市貴族へと、その性格を変貌させたことになる。
 
その後、按司は、国王、王子に次ぐ身分を表す称号となっていった。しかし、当初は王子の称号はまだ用いられておらず、王の子も按司と呼ばれていたようである。戸部良煕著『大島筆記』([[1762年]])に、「昔は王子の名目無りしが、中山王の子弟なれば王子と称するはずなりとの、天下([[公方]]様と聞く)よりの被仰附にて、王子と云格立たる由也」とあり<ref>戸部良煕著「大島筆記」『海表叢書』巻三、1928年、32頁参照。</ref>、日本の[[将軍]]より中山王(琉球国王)の子弟は王子の称号を使用するように命じられたとある。この事実は、尚真王の在世当時に建てられた[[玉陵の碑文]]([[1501年]])に「中くすくのあんし まにきよたる(中城の按司・真仁堯樽。尚真王の第五王子、後の[[尚清王]])と刻まれていることからも、確認できる。[[ファイル:yoshimura2.jpg|thumb|left|按司の正装をする[[義村御殿]]の[[義村朝義]]]]
時代が経るにつれて、地方豪族であった諸按司の子孫はその下の階級の[[親方 (沖縄)|親方(ウェーカタ)]]へと降格していき、代わって按司階級は王族が独占するようになった。王子は一代限りとし、王子や按司の長男(嗣子)が按司を継いだ。この結果、按司家は国王家の分家という位置づけになり、日本の[[宮家]]のような存在になった。王族以外で、[[明治]]まで按司の家格を保ったのは、馬氏[[国頭御殿]]だけである。これは国頭御殿三世の国頭親方正格が、[[尚元王]]が[[奄美大島]]へ遠征中に病に伏したとき、自分が王の身代わりとなるよう祈願して亡くなったという故事から、国頭御殿が臣下として破格の待遇を与えられたからである。
 
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按司は、普通その采地とする間切名を冠して呼ばれる。'''名護按司'''(采地・名護間切)、'''高嶺按司'''(采地・高嶺間切)のごとくである。間切名で呼ばれない場合もある。'''義村按司'''(采地・東風平間切)や'''玉川按司'''(采地・兼城間切)の場合がそうである。しかし、これらは例外である。
 
女性の場合は、接尾敬称の加那志(がなし)を付けて、某按司加那志と称した。例えば、王妃は佐敷間切を領したので、'''[[佐敷按司加那志]]'''と呼ばれた。王女の場合、未婚のときは[[童名 (琉球諸島・奄美群島)|童名]]を冠して、そのまま'''思戸金按司加那志'''というふうに称した。結婚する時は、王家直領たる真和志、南風原、西原の三間切から適当な地名を選んで、例えば、'''内間按司加那志'''(西原間切・内間村より)というふうに称した。嫁ぐと、既婚王女の称号である翁主(おうしゅ)をつけて、'''内間翁主'''と称した。また、王子(按司から昇格した従王子を含む)の妃も、按司加那志と呼ばれた。
 
按司は、家来や身分の低い者からは'''御前'''(ウメー)という敬称で呼ばれ、子供たちなど身内から'''按司前'''(アジメー)と呼ばれた。按司家を指す場合は、御殿を付けて伊江御殿というふうに呼んだのは、前述の通りである。
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== 脚注 ==
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{{Reflist}}
<references/>
 
== 参考文献 ==
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* [[琉球国王]]
* [[琉球の位階]]
 
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
 
{{DEFAULTSORT:あし}}