都野家頼
都野 家頼(つの いえより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。都野氏は石見国那賀郡都野郷(現在の島根県江津市)を本拠とした国人。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 慶長2年12月22日(1598年1月29日) |
別名 | 通称:弥次郎→三左衛門 |
墓所 | 観音寺(島根県江津市江津町) |
主君 | 毛利輝元 |
氏族 | 藤原北家宇都宮氏庶流都野氏 |
父母 | 父:都野隆安 |
妻 | 正室:あちゃこ(吉川経家息女) |
子 | 元勝 |
生涯
編集石見国那賀郡都野郷を本領とした国人である都野隆安の子として生まれ、毛利輝元に仕える。
天正14年(1586年)の九州征伐に従軍し、同年11月の賀来氏の守る豊前国宇留津城攻撃では小早川隆景や黒田孝高に従って武功を挙げ、11月9日に毛利輝元から、11月12日には吉川元長から感状を与えられた。
天正15年(1587年)から天正19年(1591年)にかけて行われた毛利氏の惣国検地において、都野氏領は石見国那賀郡都野郷678石3升と出雲国飯石郡仙導の内の286石9斗7升、合計965石とされ、天正19年(1591年)11月5日付で穂田元清、福原広俊、渡辺長、林就長、佐世元嘉、二宮就辰、内藤元栄、安国寺恵瓊の連署の打渡状が与えられている。
慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では毛利秀元に従って渡海し、朝鮮の蔚山における突貫工事での蔚山倭城築城に加わったが、完成目前の同年12月22日、明軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000に急襲され、同じく毛利氏家臣である冷泉元満や阿曽沼元秀と共に戦死した(蔚山城の戦い)。
家頼が戦死した時、子の元勝はまだ母の胎内にいて生まれていなかった。そのため、輝元は生まれた子が男子であればその子に家頼の後を継がせるとして、慶長3年(1598年)2月2日付で宛先に「都野」とのみ記した判物を先に与え、同年5月27日に改めて「都野役熊(都野元勝)」に家頼の後を継がせる旨の判物を与えた。
なお、家頼は石見国那賀郡江津において、菩提所として曹洞宗の光福山普済寺を、祈願所として真言宗の東光寺を建立し、両寺に寺領を寄進している。