藤原行経
藤原行成の五男
藤原 行経(ふじわら の ゆきつね)は、平安時代中期の公卿・能書家。権大納言藤原行成の三男。従二位・参議。和様書道の流派世尊寺流二代目。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 寛弘9年(1012年) |
死没 | 永承5年閏10月14日(1050年11月30日) |
官位 | 従二位、参議 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇 |
氏族 | 藤原北家世尊寺流 |
父母 | 父:藤原行成、母:源泰清の娘 |
兄弟 | 薬助、実経、良経、行経、永親、源顕基室、源経頼室、藤原長家室 |
妻 | 源貞亮の娘 |
子 | 伊房、師行、資宗、行豪、禅円、行教 |
経歴
編集後一条朝の治安3年(1023年)従五位下に叙爵し、侍従に任官する。治安4年(1024年)右兵衛権佐を経て、万寿2年(1025年)右近衛少将に任ぜられると、長元6年(1033年)左近衛少将と近衛少将を務める傍らで、万寿3年(1026年)従五位上、万寿4年(1027年)正五位下、長元2年(1029年)従四位下、長元7年(1034年)従四位上、長元9年(1036年)正四位下と順調に昇進する。
後朱雀朝に入ると、長暦2年(1038年)右近衛権中将に昇進して引き続き近衛次将を務める傍ら、長暦3年(1039年)春宮権亮を兼ねて春宮・親仁親王にも仕える。長久3年(1042年)左近衛中将を経て、長久4年(1043年)蔵人頭に補される。
寛徳2年(1045年)正月に親仁親王が即位(後冷泉天皇)するが、これまで春宮権亮を務めていたことから蔵人頭に留任し、同年10月には参議に任ぜられて公卿に列した。議政官としてはしばらく備後権守のみを兼帯するが、寛徳3年(1046年)春宮権亮の功労により従三位、永承4年(1049年)春日行幸行事賞により正三位と引き続き順調に昇進する。永承5年(1050年) 2月に兵部卿を兼ね、10月には上東門院行幸の院司賞により従二位に至るが、閏10月14日に薨去。享年39。
真跡とされるもの
編集など
官歴
編集『公卿補任』による。
- 治安3年(1023年) 正月7日:従五位下。2月12日:侍従
- 治安4年(1024年) 正月:右兵衛権佐
- 万寿2年(1025年) 正月27日:右近衛少将。9月:服解。日付不詳:復任
- 万寿3年(1026年) 正月5日:従五位上。2月7日:兼丹波権介
- 万寿4年(1027年) 正月5日:正五位下(中宮御給)
- 万寿5年(1028年) 2月22日:五位蔵人
- 長元2年(1029年) 正月6日:従四位下
- 長元3年(1030年) 正月26日:止丹波権介[1]
- 長元5年(1032年) 2月8日:兼播磨権介[1]
- 長元6年(1033年) 正月29日:左近衛少将
- 長元7年(1034年) 正月6日:従四位上(少将労)
- 長元9年(1036年) 正月6日:正四位下(上東門院御給)。正月29日:止播磨権介[1]
- 長暦元年(1037年) 4月27日:兼播磨権守
- 長暦2年(1038年) 6月27日:右近衛権中将[1]
- 長暦3年(1039年) 閏12月20日:兼春宮権亮(春宮・親仁親王)[2]
- 長久2年(1041年) 正月25日:兼備中権守
- 長久3年(1042年) 正月29日:左近衛中将
- 長久4年(1043年) 9月19日:蔵人頭
- 寛徳2年(1045年) 正月16日:蔵人頭(践祚、先坊権亮)。4月24日?:止備中権守[1]。10月23日:参議、止中将
- 寛徳3年(1046年) 正月28日:兼備後権守。2月11日:従三位(前坊亮)
- 永承2年(1047年) 正月28日:兼備後権守
- 永承4年(1049年) 12月29日:正三位(春日行幸行事賞)
- 永承5年(1050年) 2月6日:兼兵部卿。10月13日:従二位(行幸上東門院、院司賞)。閏10月14日:薨去