蒲殿俊
蒲 殿俊(ほ でんしゅん、1875年 - 1935年)は、清末民初の政治家。立憲派として活動した。字は伯英。四川省広安出身[1]。
蒲殿俊 | |
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プロフィール | |
出生: | 1875年(清光緒元年) |
死去: |
1934年(民国23年)10月 中華民国 北平市 |
出身地: | 清 四川省順天府広安州 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 蒲殿俊 |
簡体字: | 蒲殿俊 |
拼音: | Pú Diànjùn |
ラテン字: | P'u Tien-chün |
和名表記: | ほ でんしゅん |
発音転記: | プー ディエンジュン |
事跡
編集青年期に広安で紫金精舎を設立、学問を重ねた。当地の保守勢力により康有為の郎党と目された。1904年(光緒30年)、甲辰科進士となり、法部主事の位を授かった。その後日本に留学している[1]。帰国して1909年(宣統元年)、四川省咨議局議長に選出された。翌年、『蜀報』を創設して立憲を宣伝し、また北京に請願に赴いている。
1911年(宣統3年)、鉄道保護運動(保路運動)が勃発すると、四川保路同志会会長に選出された。同年11月27日、辛亥革命に呼応して成都に大漢四川軍政府が成立すると、蒲殿俊が都督、朱慶瀾が副都督として選出された。しかし12月8日、給料遅配に不満を抱いた四川軍兵士が暴動を起こし、蒲と朱はこれを鎮圧できず逃亡した[2]。
中華民国成立後の1912年(民国元年)8月、民主党に加入する。翌年、衆議院議員に当選する。同年5月、民主党が共和党、統一党とともに進歩党を結成すると、蒲殿俊はその理事に選ばれた。
1913年より袁世凱の帝政と張勲の王朝復古に異を唱えた。段祺瑞政権の内務部部長となって議員を買収、曹錕を大統領とした[1]。
1916年(民国5年)、国会の復活とともに衆議院議員に復帰する。翌年7月、北京政府内務部次長兼北京市政督弁に任命された(内務部次長については、同年12月に辞任している)。翌年、北京『晨報』社社長に就く。1921年(民国10年)4月、上海で民衆戯劇社を創設し、月刊『戯劇』を刊行した。翌年、再び国会議員に戻っている。晩年は郷里に帰り、政治には関与しなかった。
注
編集参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 陳祖武「尹昌衡」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第10巻』中華書局、2000年。ISBN 7-101-02114-X。
- 丘琴・姜克夫「朱慶瀾」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第10巻』中華書局、2000年。ISBN 7-101-02114-X。
- 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、2007年、ISBN 978-7-101-05531-3)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 孟慶遠「中国歴史文化辞典」孟慶遠『中国歴史文化辞典』新潮社、1998年。ISBN 4-10-730213-X。