澤﨑俊和
澤﨑 俊和(さわざき としかず、1974年9月21日 - )は、千葉県千葉市若葉区出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県千葉市若葉区 |
生年月日 | 1974年9月21日(50歳) |
身長 体重 |
181 cm 77 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1996年 ドラフト1位 (逆指名) |
初出場 | 1997年4月6日 |
最終出場 | 2005年4月5日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
編集東京都足立区で生まれ、後に千葉へ転居する[1]。小学2年で野球を始め、千葉市立みつわ台中学校3年の時に北千葉大会で優勝する[1]。志学館高等学校(現:志学館高等部)では2年秋からエースになるが3年夏は県大会4回戦で敗退し甲子園出場ならず[1]。プロ入りを拒否して青山学院大学へ進み、4年春のリーグ戦でMVPと最優秀投手に選ばれ、日米大学野球代表に選出される。1996年の全日本アマチュア野球王座決定戦(現在は廃止)でも住友金属を下し、アマチュアNo1投手となった[1]。東都大学リーグ通算45試合登板、18勝9敗 防御率2.09 204奪三振。最優秀投手2回(3年秋、4年春)、ベストナイン2回(3年秋、4年春)。大学の同級生には井口忠仁・倉野信次・清水将海らがいる。
1996年度ドラフト会議にて広島東洋カープから1位指名(逆指名)を受け、入団[1]。1位指名が澤﨑で2位指名が黒田博樹だった。抜群のコントロールとスライダーを武器にしていた。
1999年シーズンには、ストッパーとして14セーブを挙げる。
2000年シーズン・2001年シーズンと右肘を故障に見舞われる。
2003年シーズン・2004年シーズンは中継ぎで40試合近く登板した。
2005年シーズンには再び故障。
同年のシーズン終了後、故障が元で自由契約となり、そのまま現役を引退。
同年のシーズンオフに現役を引退した小林幹英とともに翌年の2006年シーズンには投手コーチに就任。初年度は三軍コーチだったものの、清川栄治の退団に伴い2007年シーズンからは一軍投手コーチを担当。2007年3月5日に広島市民球場で行われた紅白戦で、先発した小山田保裕の後、他に投げる予定の投手がいなかったことから、コーチでありながら紅白戦で登板し、1回を被安打1無失点に抑える。本人曰く「冗談だと思っていた。誰も投球練習していないので『ほんとにオレかよ』とびっくりした。何とかストライクを入れようと集中していた」とのこと。また、2006年4月からは広島エフエムのDO THE CARPという番組に出演。また、同期入団で黒田より一軍定着が早かったが、今では黒田を「一番尊敬する投手ですね」と褒め称えた。
2009年シーズンからは再び三軍投手コーチに戻る。
2011年シーズンからは二軍投手コーチを担当。
2020年シーズンは、13年ぶりとなる一軍投手コーチを担当。
2021年シーズンは3度目となる三軍のコーチを務め、シーズン終了後の11月3日に退団が発表された[2]。
2022年1月7日、日本海オセアンリーグの滋賀GOブラックスで投手コーチに就任することが発表された[3]。チームは同年シーズン終了後の12月に1年間の活動休止を発表した[4]。
2023年1月10日、滋賀からの退団が正式に発表された[5]。その翌日の1月11日、ベイサイドリーグ(日本海オセアンリーグが改称)に今シーズンより加入するYKSホワイトキングスの監督に就任することが発表された[6]。その傍らTBSテレビ(TBSチャンネル)の横浜DeNAベイスターズ主催試合(主に対広島戦)などに野球解説者として本数契約で出演する。2023年のベイサイドリーグシーズン終了後の10月3日、同シーズン限りでの監督退任が発表された[7]。
2024年1月11日、ベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)の群馬ダイヤモンドペガサスで投手コーチに就任することが発表された[8]。1シーズン務め、シーズン終了後の10月4日に退任が発表された[9]。
選手としての特徴
編集一軍投手コーチとして1年目の澤﨑の活躍に立ち合った川端順は澤﨑について「練習熱心な選手。ブルペンで体力を使い切らないように (当時は当たり前に行われていた) 週に2、3度行うブルペンでの調整を免除したほど」と振り返っている[10]。
2年目は不調に陥り、3年目に川端が「責任感が強く、チームの為に投げられる選手」という理由でクローザーに配置転換を行なった。クローザーは通常7回から準備を始めるが、澤﨑はどれだけ点差があっても5回からブルペンに入る真面目さだった。
川端は澤﨑について「酷使したのは我々の責任かもしれない。しかし、あれだけの練習が彼を作り上げたのは間違いない」と評している。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | 広島 | 38 | 21 | 2 | 1 | 0 | 12 | 8 | 0 | -- | .600 | 673 | 156.1 | 162 | 23 | 47 | 1 | 7 | 106 | 4 | 0 | 68 | 65 | 3.74 | 1.34 |
1998 | 17 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 111 | 23.2 | 30 | 3 | 12 | 0 | 0 | 18 | 2 | 0 | 14 | 13 | 4.94 | 1.77 | |
1999 | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 14 | -- | .333 | 105 | 24.0 | 25 | 2 | 10 | 1 | 0 | 16 | 1 | 0 | 17 | 17 | 6.38 | 1.46 | |
2000 | 15 | 13 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 0 | -- | .500 | 281 | 61.2 | 72 | 8 | 28 | 2 | 1 | 38 | 2 | 0 | 42 | 38 | 5.55 | 1.62 | |
2002 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 14 | 4.1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 2.08 | 0.92 | |
2003 | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | -- | .800 | 202 | 45.2 | 56 | 6 | 16 | 1 | 3 | 35 | 1 | 0 | 22 | 22 | 4.34 | 1.58 | |
2004 | 38 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | -- | .500 | 191 | 43.0 | 52 | 11 | 15 | 0 | 1 | 28 | 0 | 0 | 33 | 32 | 6.70 | 1.56 | |
2005 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 5 | 1.1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.75 | |
通算:8年 | 180 | 35 | 2 | 1 | 0 | 24 | 17 | 15 | 0 | .585 | 1582 | 360.0 | 401 | 53 | 129 | 5 | 12 | 243 | 10 | 0 | 198 | 188 | 4.70 | 1.47 |
表彰
編集- 新人王(1997年)
記録
編集- 初記録
- 投手記録
- 初登板:1997年4月6日、対阪神タイガース2回戦(広島市民球場)、8回表に3番手で救援登板・完了、2回1失点
- 初奪三振:同上、9回表に関川浩一を見逃し三振
- 初勝利:1997年4月10日、対ヤクルトスワローズ3回戦(明治神宮野球場)、9回裏に2番手で救援登板・完了、3回無失点
- 初先発登板:1997年4月20日、対中日ドラゴンズ2回戦(長良川球場)、6回3失点
- 初先発勝利:1997年4月26日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、5回0/3を3失点
- 初完投勝利:1997年7月9日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、9回2失点
- 初完封勝利:1997年10月7日、対横浜ベイスターズ26回戦(広島市民球場)
- 初セーブ:1999年5月30日、対横浜ベイスターズ10回戦(広島市民球場)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点
- 打撃記録
- 初安打・初打点:1997年4月26日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、2回表に岡島秀樹から右前適時打
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回(1997年)
背番号
編集- 14(1997年 - 2005年)
- 87(2006年 - 2021年、2024年)
- 88(2022年)
- 89(2023年)
脚注
編集出典
編集- ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、260ページ
- ^ “広島が山田和利、澤崎俊和の2コーチの退団を発表 ともにチームOB、各部門を歴任”. Full-Count. (2021年11月3日) 2022年1月7日閲覧。
- ^ 滋賀GOブラックス [@oceanshiga] (2022年1月7日). "【投手コーチ就任のお知らせ】". X(旧Twitter)より2022年1月7日閲覧。
- ^ “滋賀GOブラックスの運営会社の移行準備開始のお知らせ”. 滋賀GOブラックス (2022年12月22日). 2022年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月28日閲覧。
- ^ “コーチ及び選手退団のお知らせ”. 滋賀GOブラックス (2023年1月10日). 2023年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月10日閲覧。
- ^ YKSホワイトキングス [@YKS_White_Kings] (2023年1月11日). "【監督就任のお知らせ】". X(旧Twitter)より2023年1月11日閲覧。
- ^ 澤﨑俊和監督 退任のお知らせ - ウェイバックマシン(2023年10月14日アーカイブ分) - YKSホワイトキングス(2023年10月3日)2023年10月4日閲覧。
- ^ 新コーチ就任のお知らせ - 群馬ダイヤモンドペガサス(2024年1月11日)2024年1月11日閲覧。
- ^ 澤﨑俊和投手コーチのお知らせ - 群馬ダイヤモンドペガサス(2024年10月4日)2024年12月3日閲覧。
- ^ “よみがえる熱球 <12>沢崎俊和”. 2021年4月3日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 澤﨑俊和 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube