渋川直頼
渋川 直頼(しぶかわ ただより)は、南北朝時代の武将。渋川氏5代当主。
時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 建武2年(1335年) |
死没 | 正平11年/延文元年7月17日(1356年8月13日) |
改名 | 幸王丸(幼名)→直頼 |
別名 | 通称:太郎 |
官位 | 中務大輔 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利直義→尊氏・義詮 |
氏族 | 渋川氏 |
父母 | 父:渋川義季、母:北条朝房[1]娘 |
兄弟 | 幸子(足利義詮正室)、直頼、吉良満貞室 |
妻 | 正室:高師直娘 |
子 |
義行 養子:尊頼(義宗)(吉見氏からの養子) |
略歴
編集建武2年(1335年)、4代当主・渋川義季の長男として誕生。同年、父・義季が中先代の乱で戦死したため、幼児の身で渋川家当主となった。元服の際は足利直義の偏諱を受け直頼と名乗る。姉は、足利義詮の正室・渋川幸子(こうし)。
中務大輔に任官すると足利方の武将として従軍した。やがて幕府内部の抗争である観応の擾乱が勃発すると、直義方からその兄・足利尊氏方の武将に転ずる。その後は観音寺城で直義方と合戦を行ったり、一時は京都守護になるなど尊氏方の武将として活躍したようだが、間もなく記録から姿を消す。
『系図纂要』によると正平11年7月17日に没したとされる。享年22。跡を嫡男・義行が継いだ。備後国御調郡に所領を得たとされ、これが子孫の備後守護へと繋がっていく。