池田綱重
戦国時代の人物
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池田 綱重(いけだ つなしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、真田氏の家臣。
生誕 | 未詳 |
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死没 | 寛永4年(1627年)7月15日 |
別名 | 甚次郎、長門守 |
主君 | 真田昌幸→信之 |
藩 | 松代藩 |
父母 | 父:池田重安 |
経歴
編集父は吾妻斎藤氏家臣であった池田重安。永禄8年(1565年)に重安は斎藤城虎丸と共に嶽山城に籠城し武田氏に抵抗したが、真田幸綱を通じて降伏し、以後真田家臣となった[1]。
幸綱・信綱の死後は昌幸に仕え、重臣として活動した。1585年(天正13年)、第一次上田合戦では鉄砲隊を率い徳川軍に奇襲を仕掛け、奇襲名人と称される[要出典]。昌幸が秀吉に服従してからは伏見の屋敷に移り住んだ。関ヶ原の戦いの際は昌幸に従い上田城に籠城した。戦後は昌幸、信繁らとともに九度山へ入ったが[2]、昌幸の生前に帰国して信之に仕えた。信之の元でも藩政に重きをなした。墓所は長野市松代町長国寺。