池田恒元
江戸時代前期の大名。備前児島藩主2万石、播磨山崎藩初代藩主。恒元系池田家初代。池田利隆の次男。従五位下・備後守
池田 恒元(いけだ つねもと)は、江戸時代前期の大名。備前国児島藩主、のち播磨国山崎藩の初代藩主。恒元系池田家初代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長16年(1611年) |
死没 | 寛文11年9月4日(1671年10月6日) |
改名 | 三五郎(幼名)、恒元 |
戒名 | 盛徳院殿鉄岩玄心大居士 |
墓所 | 和意谷池田家墓所 |
官位 | 従五位下・備後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 備前児島藩主、播磨山崎藩主 |
氏族 | 池田氏(恒元流) |
父母 | 父:池田利隆、母:福正院 |
兄弟 | 光政、恒元、政貞、長姫 |
妻 |
正室:玉子(松平定勝の娘) 側室:上田氏 |
子 | 政周、板倉重良正室、蕃子、竹中重長正室 |
略歴
編集慶安元年(1648年)、2万石を与えられて児島藩を立藩したが、慶安2年(1649年)から山崎藩主となる。
翌年から検地や治水工事、山林の保護、交通路の整備、村落制度の制定などを行なって藩政の確立に尽力した。承応元年(1652年)から城下町で火事が起こり、さらに疫病が流行するなどしたが、このときも万全の対応を行って領民を救う手腕を見せた、兄に劣らぬ名君であった。