永井直清
永井 直清(ながい なおきよ)は、江戸時代初期の大名。山城長岡藩主、のち摂津高槻藩の初代藩主。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正19年(1591年)5月 |
死没 | 寛文11年1月9日(1671年2月18日) |
別名 | 伝十郎(通称) |
戒名 | 月峯空閑宗明院 |
墓所 | 京都府京都市東山区の泉涌寺悲田院 |
官位 | 従五位下、日向守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 山城長岡藩主→摂津高槻藩主 |
氏族 | 永井氏 |
父母 | 父:永井直勝、母:阿部正勝の娘 |
兄弟 | 尚政、直清 |
妻 | 正室:高木正次の娘 |
子 | 直吉 |
生涯
編集天正19年(1591年)5月、永井直勝の次男として相模で生まれる。徳川秀忠に仕えて御小姓、御書院番となり、慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参加し、同年に530石の知行を与えられている。
寛永9年(1632年)11月18日、日向守に叙任。数度の加増を経て寛永10年(1633年)3月25日、2万石を与えられて山城勝竜寺城に入城し長岡藩主となる。慶安2年(1649年)7月4日には1万6000石を加増されて合計3万6000石の大名となる。このとき、領地も長岡から摂津高槻に加増移封された。兄の尚政と同様に有能かつ京都周辺の領地を支配したため、京都所司代代理・大坂城代代理を歴任し、禁裏造営の奉行や大坂城普請を務めるなど、幕府からの信任は厚かった。藩政においても、城下町の整備や拡大、治水工事に努めて実高6000石を増加させるなど、藩政の基礎を固めた。
寛永12年(1635年)に嫡男の直吉を廃嫡し、寛文11年(1671年)1月9日に直清が死去した後は、直吉の長男の直時が跡を継いだ。享年81。
系譜
編集系図
編集直勝(1) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尚政(2) | 直清1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尚征(3) | 直吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尚長(4) | 直種3 | 直圓(5) | 直時正室 | 直時2 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
直英5 | 直達正室 | 直達4 | 直亮(6) | 直期6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
直行7 | 直珍8 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
数字は代数(太字は高槻藩主、( )は永井宗家)