水野忠政
日本の戦国時代の武将、大名。尾張国知多郡の豪族 水野氏当主。緒川城主4代、刈谷城主3代。水野清忠の次男。子に水野豊信(1512?1518?-1598、藤右衛門、知多郡吉川郷200貫文、武蔵豊嶋郡210石
水野 忠政(みずの ただまさ)は、戦国時代の武将、戦国大名。水野家当主。通称は藤七郎、右衛門大夫、下野守。緒川城および刈谷城の城主。徳川家康の生母・於大の方(伝通院)は娘で、外祖父にあたる。
水野忠政像(名古屋市博物館蔵) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 明応2年(1493年) |
死没 | 天文12年7月12日(1543年8月22日) |
改名 |
牛息丸(幼名)、 |
別名 | 通称:藤七郎、下野守、右衛門大夫 |
戒名 | 長江院殿大渓堅雄大居士 |
墓所 | 宇宙山乾坤院 |
氏族 | 水野氏 |
父母 | 父:水野清忠 |
兄弟 | 清重、忠政、元興、女[注釈 1](松平信忠室)、女(奥平貞勝室) |
妻 |
正室:松平昌安の娘 継室:華陽院(大河内元綱の養女) 側室:某氏ほか |
子 | 近守[注釈 2]、信元、於丈の方[注釈 4](松平家広室)、信近、忠守、於大の方(松平広忠室)、妙春尼(妙西尼[注釈 6])(石川清兼室)、女(水野豊信室)、近信[注釈 7]、忠勝、藤助[注釈 8]、屋鍋[9][注釈 9](中山勝時室)、女(水野忠守[注釈 10]室)、忠分、忠重 |
特記 事項 | 『新編東浦町誌』の「水野氏法名一覧」[7]には、忠守が「長江院殿堅雄」(忠政)の三男となっている。ただし、ここでは「近守」を忠政の子としており、これを否定する『刈谷市史』の立場とは、その理由を異にする[注釈 11]。 |
人物
編集略歴
編集明応2年(1493年)、水野清忠の次男として生まれる。幼名は牛息丸。初名は妙茂[3]。
はじめ尾張国の緒川城(愛知県東浦町)を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年(1533年)、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築いた。
織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠[注釈 12]、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。
天文12年(1543年)7月12日、死去。享年51。墓所は愛知県東浦町の乾坤院。法名は長江院殿大渓堅雄大居士。
妻および子供たちの生母について
編集『寛政譜』がその出自を示すのは次の2名である。残りは某氏とされる。
- 松平昌安(信貞)の娘 - 「信元」「松平家広室」の母。「死別」ではなく「離婚」となっている。
- 大河内元綱の養女 - 「於富の方」(華陽院)として知られる。「継室」とされている。「忠守」「於大の方」「近信」「忠分」「忠重」の母とする。しかし、伝えられている松平清康(1535年死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる「忠分」「忠重」の母ではありえない。平野明夫は著書『三河松平一族』において所生の子供たちの生年から検討した結果、於富の方と松平清康との再婚は有り得ないと考証している。
『新編東浦町誌』の「水野氏法名一覧」の中に次の2名が記されている[7]。
- 三昭貞富禅定尼 - 「忠分」の母。没年は天文12年(1543年)2月4日。半年後に忠政が死亡。
- 本樹院殿栄岩宗盛大姉 - 「水野和泉守殿之母」。没年は天正15年(1587年)6月13日。「水野藤九郎」がその名を見せる、永正13年(1516年)の記述[注釈 13]から71年経過しており、水野藤九郎=和泉守近守の母ではありえない。ここでの「水野和泉守」は「忠重」であり、「栄岩宗盛」がその母である。
以上、4名以上の女性が子供たちの母として存在していたことがわかる。
登場作品
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『寛政譜』では妹の位置に書かれているが、信忠との年齢を考えると、姉か。
- ^ 通称は藤九郎、和泉守。『寛政譜』に弘治2年(1556年)3月20日「父にさきだちて死す」とあるが、忠政の記述には天文12年(1543年)没とあり、矛盾する[1]。 『刈谷市史』(第2巻、1994年)で、忠政の子ではないとするのはそのためか。
- ^ ただし、「忠政」-「信元」=「忠重」を嫡流とする、水野勝成に始まる福山・結城水野家の家譜では、於上の方が松平家広以前に婚姻していたことが認められないという。
- ^ 「水野石見守長勝母、水野右衛門大夫忠政嫡女」として、慶長2年(1597年)5月5日卒とある[2]。法名は覚法院殿月貞妙心大姉で「伝通院の姉」とされる。最初の夫[注釈 3]は緒川城主水野常陸介成清(天文2年(1533年)没)で、先夫との間に水野石見守長勝があるという[3]。墓所は埼玉県寄居町の昌国寺。寄居町赤浜(男衾地区)では、現在でも「於丈の方」を「形ノ原様」(ギョウノハラ様)と言い伝える。
- ^ 天正13年(1585年)。
- ^ 法名・芳春院妙西。三河一向一揆後に、本願寺派教団の「仏法之肝煎」として、門徒の赦免と西三河への寺僧の還住[注釈 5]がなされるまで、その指導的立場にあったと推測されている[4]。現存する文書から、石川清兼の後室で、1534年に生まれた日向守家成の実母[5]、於大の方(1528年生)の姉[6]。慶長3年(1598年)2月4日没。墓所は岡崎市美合町の本宗寺。
- ^ 伝兵衛。法名・宗白。兄信近が戦死した刈谷城での戦いの際、負傷し障害を負ったが家康の関東入封後知行500石を得る。慶長7年8月9日(1600年9月15日)刈谷にて死去。墓所は「信近」と同じく、愛知県刈谷市天王町6-7の楞厳寺。
- ^ 『新編東浦町誌』の「水野氏法名一覧」に没年は天正2年とあるが、4月9日「於尾州長久手戦死」とあるので[7]、後者が正しいのであれば、長久手の戦いが行われた天正12年(1584年)の誤記の可能性もあるが、『刈谷市史』でも天正2年を没年としていて[8]、どちらかわからない。
- ^ 寛永21年(1644年)没[8]。
- ^ 兄の織部忠守とは同名異人で一族の水野大膳家の忠守のこと。
- ^ 『新編東浦町誌』では、「近守」と没年が一致する「春河全芳」が「右衛門大夫御子」となっている。また「右衛門大夫」を忠政の呼称としてのみ用いている。
- ^ 水野忠政と松平広忠の婚姻同盟について、松平家の実権を握っていた広忠の叔父信孝主導の外交政策によるものとする見解が出されている[10]。
- ^ 柴屋軒宗長の『宇津山記』
出典
編集- ^ 堀田 1923, p. 821.
- ^ 「寄居町史 近世資料編」(1983年)所収(530頁)の「昌国寺文書」227(文久3年4月)
- ^ a b 堀田 1923, p. 823.
- ^ 『新編岡崎市史2』829頁
- ^ 「新編岡崎市史6」所収、542-544頁「上宮寺文書」29および31。また1194頁「本派本願寺文書」7の家康朱印状。宛先は「ひうかのかみははかた」
- ^ 『新編岡崎市史』20巻、383頁
- ^ a b c 『新編東浦町誌』資料編3、2003年。
- ^ a b 「刈谷市史」第二巻の64頁。
- ^ 『寛永諸家図伝』
- ^ 小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P166-168.
参考文献
編集- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 水野氏」『寛政重脩諸家譜. 第2輯』國民圖書、1923年、821頁 。
徳川家康の系譜 |
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