梁士詒
梁 士詒(りょう しい)は、清末民初の政治家・経済家。字は翼夫。号は燕孫。北京政府で袁世凱の皇帝即位を推進した。また、安徽派の政治家で、交通系(特に旧交通系)と呼ばれる政治集団の指導者としても知られる。後に国務院総理もつとめた。
梁士詒 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: |
1869年5月5日 (清同治8年3月24日) |
死去: |
1933年(民国22年)4月9日 中華民国 |
出身地: | 清広東省広州府三水県 |
職業: |
中華民国誥授一等嘉禾章上卿銜中卿 国務議会参政院参知政事擢国務総理 民国交通銀行総裁 など 清朝進士;民国政治家、経済家 |
各種表記 | |
繁体字: | 梁士詒 |
簡体字: | 梁士诒 |
拼音: | Liáng Shìyí |
ラテン字: | Liang Shih-i |
注音二式: | Liáng Shìyí |
和名表記: | りょう しい |
発音転記: | リャン・シーイー |
生涯
編集「小総統」
編集1889年(光緒15年)に挙人、1894年(光緒20年)に甲午科進士となる。その後、翰林院編修に任命された。1903年(光緒29年)には北洋編書局総弁をつとめる。1904年(光緒30年)、唐紹儀に随従してインドに向かい、中英チベット条約を議定する。翌年に帰国し督弁鉄路総文案に就任した。1907年(光緒33年)、五路提調処提調兼交通銀行幇理に就任し、さらに鉄路総局局長に転任した。1911年(宣統3年)の武昌起義後に郵伝部副大臣(署理大臣)に就任した。
1912年(民国元年)3月、梁士詒は北京政府の総統府秘書長に就任し、同年5月、交通銀行総経理を兼任した。以後、周自斉・朱啓鈐らとともに、交通系と呼ばれる政治集団を形成する。1913年(民国2年)5月、署理財政部次長兼代理部務をつとめる。9月18日、袁世凱の指図を受けていた梁士詒は、国会で袁の御用政党である公民党を結成した。10月、軍・警察を動員して国会議場を包囲する中で、袁世凱を正式に大総統に選出させた。その権力行使の様から、梁士詒は「小総統」とあだ名されたという[1]。1914年(民国3年)、税務処督弁に就任した。
度重なる失脚、復帰
編集1915年(民国4年)、梁士詒は袁世凱の皇帝即位のために請願活動を行った。しかし帝制が失敗し、翌年6月に袁世凱が死去すると、梁士詒は帝制運動の主犯として指名手配されてしまい、香港へ逃亡した。1918年(民国7年)2月に特赦されると、安徽派の政治家として復帰する。同年6月、交通銀行董事長兼国内公債局総理の地位に就いた。9月、安福国会の参議院院長をつとめる。1921年(民国10年)12月、奉天派の張作霖の支援を得て梁士詒は国務院総理に就任した。しかし翌年1月に、内閣は早くも倒れている。同年4月、第1次奉直戦争で奉天派が直隷派に敗北すると、梁士詒は日本に亡命した。
1925年(民国14年)2月、段祺瑞執政政府で、梁士詒は財政善後委員会委員長兼交通銀行総理として復帰する。1926年(民国15年)、張作霖に招聘されて政治研討会会長に就任し、翌民国16年(1927年)、税務処督弁となった。1928年(民国17年)、北京政府崩壊により梁士詒は国民政府から指名手配を受けたため、香港へ逃亡した。後に赦され、1932年(民国21年)、国難会議会員として招聘されている。
1933年(民国22年)4月9日に死去。享年65(満63歳)。
脚注
編集- ^ 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、60頁)。
参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、2007年、ISBN 978-7-101-05531-3)
清
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中華民国(北京政府)
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