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李 燮和(り しょうわ)は清末民初の政治家・革命家。清末に中国同盟会に加入した革命派人士である。しかし民国初期には、袁世凱の皇帝即位を支持する籌安会に加入した。名は柱中だが、燮和で知られる[1]。別号は代鈞

李燮和
プロフィール
出生: 1873年11月16日
同治12年9月27日)
死去: 1927年民国16年)8月16日
中華民国の旗 中華民国湖南省安化県
出身地: 清の旗 湖南省長沙府安化県
職業: 政治家・革命家
各種表記
繁体字 李燮和
簡体字 李燮和
拼音 Lǐ Xièhé
ラテン字 Li Hsie-ho
和名表記: り しょうわ
発音転記: リー シェーホー
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事績

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革命派としての活動

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長沙求実書院で学んだ後、反清活動を開始する。1904年光緒30年)、黄漢会を組織した。まもなく黄漢会は、黄興陳天華らが組織した華興会の外郭団体となる。李燮和らは長沙で蜂起を図ったが、失敗に終わり、李は宝慶学堂教員に転じる。李はその後も、革命派人士と蜂起を2度図ったが、いずれも失敗に終わる。1906年(光緒32年)、上海に逃れた。

上海では陶成章と知り合い、光復会に加入している。李燮和は、さらに密かに日本へ入国して、警官学校で学習し、黄興の紹介により中国同盟会に加入した。李は南洋で教師をつとめる傍ら、同盟会の宣伝活動に従事している。また、華僑の間で同盟会への支持を呼びかけ、南洋各地に分会を設立した。

しかし1909年宣統元年)9月、南洋での活動経費をめぐって陶成章と孫文(孫中山)が対立し、陶が同盟会を離脱して光復会を復活させた。このため李燮和も、光復会に南部執行員(南洋での活動を担当)として加わった。ただ、李は黄興との関係も深かったため、南洋での活動につき同盟会と完全に決裂することはなかった。その後も、革命派の資金収集に努める傍ら、機会を見ては帰国して、革命派の蜂起に参加している。

辛亥革命とその後

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1911年(宣統3年)10月、武昌起義が勃発すると、李燮和は帰国して革命派に参加した。李は黎元洪から長江下遊招討使に任命され、上海の陳其美を救援している。11月、陳が一時清軍に捕われると、李は即座に部隊を率いて陳を救出するなどし、滬軍都督府成立に大きく貢献した。さらに、武漢の革命派が窮地に陥ると、李は援鄂軍総司令として救援に向かった。

1912年民国元年)、南京に中華民国臨時政府が成立すると、李燮和は光復軍北伐総司令に任命された。しかし、袁世凱が臨時大総統になるとともに辞任する。4月、黄興から長江水師総司令に任ぜられたが、これもまもなく辞任した。

以後、李燮和の政界への関与はさしたるものではなかった。しかし1915年(民国4年)、楊度からの要請に応じて、李は袁世凱の皇帝即位を支援する籌安会に加わっている。その一方で、蔡鍔の北京脱出を密かに支援して、これを護国戦争(第三革命)に参加させるなどの動きも見せており、李のこの時の行動の真意は定かではない[2]

結局袁世凱は、護国軍や反袁世論に屈する形で皇帝即位を取り消し、翌年6月に死去する。蔡鍔らへの支援や革命時代の功績により、李燮和が罪に問われることはなかった。それでも李は、慙愧に耐えないとして完全に隠棲し、二度と政治には関与しなかった。

1927年(民国16年)8月16日、故郷の安化県で死去。享年55(満53歳)。

注釈

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  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、「李柱中」を項目名としている。
  2. ^ 籌安会参加者は、現在の中国でも一般には非難の対象である。しかし蕭棟梁「李燮和」、112頁は、李の籌安会参加に関して、きわめて短い(合計3頁強のうち、わずか1行分)、淡々とした記述にとどまる。しかも、李は楊度の「巧言邀約」の下で籌安会に参加したものとし、さらに蔡鍔救出支援にも言及するなど、李を非難する意思がほとんど見受けられない。

参考文献

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  • 蕭棟梁「李燮和」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1