李儼 (前秦)
生涯
編集元々は前涼の傘下にあった。
永和11年(355年)、張祚が誅殺されると、河州刺史張瓘は張玄靚を涼王に立てて後を継がせた。だが、李儼はこれに従わず、豪族の彭姚を殺害すると、東晋の元号である永和を用いて事実上隴西において自立した。すると、多くの民がこれを歓迎し、李儼の下に集った。
張瓘は李儼討伐の為に兵を挙げ、将軍牛覇を派遣した。だが、牛覇は進軍途上で西平において、反乱を起こした衛綝より攻撃を受け、逃げ帰った。その後、李儼は郡ごと前秦の傘下に入った。
興寧元年(363年)、張天錫が張玄靚を殺害して後を継ぐと、李儼は前涼とも修好するようになった。
太和元年(366年)12月、羌族の斂岐が略陽の四千戸を率いて前秦から離反すると、李儼に帰順した。李儼はこれを受け、牧・守を設置し、再び前秦・前涼と国交を断絶した。
太和2年(367年)2月、前秦は輔国将軍王猛・隴西郡太守姜衡・南安郡太守邵羌・揚武将軍姚萇に1万7千の兵を与えて、斂岐討伐に向かった。3月、張天錫もまた自ら兵を挙げ、李儼討伐に向かった。4月、王猛らにより略陽は攻略され、斂岐は捕らえられて長安へ送られた。さらに、張天錫の襲来により、大夏・武始の2郡が攻め落とされた。前涼の別軍を率いる常據もまた李儼を葵谷で撃ち破ると、張天錫は左南まで軍を進めた。李儼は大いに恐れて枹罕まで撤退すると共に、甥の李純を前秦へ派遣し、謝罪して救援を要請した。苻堅はこれに応じ、前将軍楊安・建威将軍王撫に2万の兵を与え、王猛と合流させた。王猛は楊安と共に枹罕救援に向かい、迎撃に出た張天錫を大いに破り、1万7千の首級を挙げた。しばらく対峙した後、張天錫は軍を退却させた。
張天錫が西へ撤退したのを見ると、李儼配下の将軍賀肫は「明公は神武を有し、その将士は精悍であります。にもかかわらず、どうして他者の下に就く必要がありましょうか!それに、王猛は遠方から来た孤軍に過ぎず、士卒は疲労しておりましょう。また、我らの要請により出陣しているので、備えなどしていない事でしょう。これに乗じて奴らを撃てば、必ずや勝利する事が出来ます」と李儼へ勧めたが、李儼は「救援を他者に求めて難を逃れ、その難がさってからすぐさまこれを撃ったとあらば、天下から何と謗られようか!固く守って疲弊を待ち、自ら退却するのを待つのがよい」 と述べ、騙し打ちには反対したものの前秦に帰順するつもりは無かった。
李儼が前秦軍を迎え入れるつもりがない事を知ると、王猛は平服で輿に乗り、数10人の従者だけを連れて面会を求めた。李儼は迎え入れようと門を開くと、李儼の守備が整わないうちに将士を次々と突入させた。こうして李儼は生け捕りとされ、枹罕は占領された。王猛は李儼へ、出迎えが遅かった件について詰ると、李儼は賀肫の陰謀を告げた。その為、王猛は賀純を処断すると、李儼を長安へ連行した。長安へ到着すると、前秦君主苻堅は李儼を光禄勲に任じ、帰安候に封じられた。
建元7年(371年)8月、河州刺史に任じられ、武始を鎮守した。9月、李儼は上邽において亡くなった。元侯と諡された。苻堅は李儼の子である李弁を河州刺史に任じた。
李弁は前秦の将として幾度も戦功を挙げて前禁将軍にまで昇ったが、淝水の戦いにより前秦が崩壊すると、離反して西燕へ亡命した。その後、経緯は不明だが南燕の魯陽王慕容和の長史となり、慕容和を殺害して滑台ごと北魏に亡命するも、南燕の右衛将軍慕容雲に討伐された。