朱 家宝(しゅ かほう)は清末民初の政治家。清末は地方官僚をつとめ、中華民国では北京政府の要人となった。字は経田、金田。号は墨龍。
16歳で秀才となり、19歳で挙人となった。1892年(光緒18年)、壬辰科進士となり、翰林院庶吉士を授かる。以後、知県、知府、道台を歴任して、江蘇按察使となる。1906年(光緒32年)、吉林巡撫に昇進した。翌年、安徽巡撫に異動している。
1911年(宣統3年)の辛亥革命において、朱家宝は安徽省咨議局から安徽都督に推戴された。しかし、まもなく兵変が発生して朱は逃亡した。以後、参議院議員、政治会議議員をつとめる。1914年(民国3年)2月、直隷民政長に就任し、さらに署直隷都督となった。5月、民政長が巡按使に改められ、6月、正式に直隷将軍(都督を改称)に就任した。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を図ると、朱はこれを支持し、一等伯に封じられた。
袁世凱死後の1916年(民国5年)7月、朱家宝は、引き続き直隷省省長兼都督として、同省の統治を継続した。1917年(民国6年)7月の張勲復辟に際して、これを支持して、張勲内閣の民政部尚書に任命された。しかし復辟失敗とともに、朱も失脚し、日本へ亡命した。同年10月、帰国して、天津に逃げ込んでいる。
1923年(民国12年)9月5日、天津で病没。享年64。