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徳光和夫

日本のアナウンサー、タレント、司会者

徳光 和夫(とくみつ かずお、1941年昭和16年〉3月10日[注 1] - )は、日本フリーアナウンサータレント総合司会者。元日本テレビエグゼクティブアナウンサー。本名:德光 和夫(読み同じ)。

とくみつ かずお
徳光 和夫
2015年撮影
プロフィール
本名 德光 和夫
愛称 徳さん
ミスター24時間テレビ
出身地 日本の旗 日本 東京都目黒区
生年月日 (1941-03-10) 1941年3月10日(83歳)
血液型 B型
最終学歴 立教大学社会学部
所属事務所 オフィス ラ・メール
職歴日本テレビアナウンサー(アナウンス部課長)
活動期間 1963年 -
ジャンル 情報報道バラエティなど
配偶者 德光早苗
著名な家族 服部誠一(曽祖父)
德光壽雄(父)
德光正行(二男)
ミッツ・マングローブ(甥)
公式サイト 公式ホームページ
出演番組・活動
出演中徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー
路線バスで寄り道の旅
ほか
出演経歴アメリカ横断ウルトラクイズ
ズームイン!!朝!
NNNニュースプラス1
THE・サンデー
世界ウルルン滞在記』など
その他24時間テレビ
日本ドッジボール協会顧問
ソニー・ミュージックアーティスツ顧問
海原会(学校法人海城学園OB会)会長

日本ドッジボール協会顧問、株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ顧問、日本司会芸能協会顧問、海原会(学校法人海城学園OB会)会長等の肩書きも持つ。

オフィス ラ・メール所属で、ソニー・ミュージックアーティスツと業務提携している。

本名の「德」は徳の旧字体で初期の日本テレビ『ズームイン!!朝!』のテロップでもこの表記を使っていたが、現在は通常の「徳」を使用している。愛称は、徳さんプロ野球読売ジャイアンツの熱烈なファンで、「巨人親父」とも称される。また、1978年から開始した『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』では、全ての回に出場しているため、ミスター24時間テレビ[1]とも言われている。公の場で感涙することが多く、「非常に涙もろい」キャラクターで知られる。番組開始時の挨拶ではフルネームを言わず「徳光です(でございます)。」「徳光め[注 2]にございます。」と言っている[注 3]

東京都目黒区出身。現在は神奈川県茅ヶ崎市在住。血液型B型。1女2男があり、タレントの徳光正行は次男。ミッツ・マングローブ[注 4]は甥にあたる。

来歴

出生

父の德光壽雄映画監督として業界の活動を始め、その後日本テレビに開局社員として入社し、1967年には当時赤字経営に苦しんでいた東京12チャンネル(現:テレビ東京)を立て直すべく設立された「科学テレビ協力委員会」の委員として出向した人物[2][注 5]。徳光の戸籍上の生年月日が実際の生年月日と異なるのは、厳格な父が「男児が3月3日、桃の節句の生まれでは格好が悪い」と1週間後で陸軍記念日の10日生まれにしたためである[注 6]

自身もフリー転身後、『にっぽんの歌』などテレビ東京の番組に出演し、次男の正行も『レディス4』の司会に起用され、親子3代に渡ってテレビ東京に関与することとなった。母は松屋のデパートガールだった。弟は英国伊勢丹元社長の德光次郎。JRA競馬騎手の福永洋一とは、遠い親戚関係にある[3]。自身が初代司会者を務めた『ズームイン!!朝!』の初日最初のニュースは、前日に起きた福永の落馬事故だった[注 7]。2歳下の妹がいたが、和夫が5歳の時に病気で亡くなっている[4]

戦時中は福島県田村郡三春町法蔵寺に疎開していた。

元々は落語家志望で[4]、趣味は野球観戦と駅伝観戦と音楽鑑賞と落語鑑賞。中学時代まではプロ野球は西鉄ライオンズ、特に大下弘のファンだった[5][6]が、私立海城高等学校在学中に、長嶋茂雄東京六大学野球新記録(当時)となる本塁打を放ち[7]、嬉しさから小躍りしながら仲間と一緒にベースを回る姿を見て感化され「人生の全てを長嶋茂雄に捧げよう」と決意[8]。長嶋がいた立教大学の全学部を受験し、辛うじて社会学部に補欠合格した[7][9]。合格した原因は「ヤマを張って集中的に勉強した日本書紀が、試験に丸々出題されていたから」ということを話している[4]。そしてその後、大学卒業後長嶋が入団した巨人のファンとなる。大学では、最初は「長嶋さんが居た神宮球場で過ごしたい」からという理由で応援団に入るが、ほとんどグラウンドに背を向けての活動だったため、試合を見られないことに不満を感じていたところ、放送研究会の部員がスタンドの最前列でテープレコーダーを持って取材などをしているのを見て、楽しそうと思い、放送研究会に転じる[4][10]。大学の同期に青尾幸加賀美幸子村田幸子土居まさる[11]、後輩に関口宏古舘伊知郎久保田光彦、放送研究会の後輩にみのもんたがいる。大学4年の時、就職に悩んでいた時期に土居に相談をし、「お前、アナウンサーになればいいじゃないか」とアドバイスを受けアナウンサーになることを決意する。

日本テレビ入社後

大学卒業後の1963年に、日本テレビへ入社。同期入社に青尾幸、今村倫子がおり、中途入社してきた同期に小林完吾がいる[注 8]。著書「企業内自由人のすすめ」によれば、日本テレビを受験した際、最終選考に残った2人が学生運動に関与していたことが判明し[注 9]、選考を辞退した影響で徳光が採用された。

主にアナウンサーとしてプロレス中継[注 10]を中心に受け持ち、ドラマ青春とはなんだ』にラグビー中継のアナウンサー役で出演したり、アニメルパン三世』第73話「花も嵐も泥棒レース」にて、自動車レースを中継するアナウンサー役(本人の役)で声優として出演したこともあった。また、1969年10月から『NTV紅白歌のベストテン』の総合司会を務め、人気を得る。1974年10月から『新・底ぬけ脱線ゲーム』の司会を務める。この頃の徳光は日本テレビ社内でもかなり特殊な存在で、「アナウンス部には週1度しか顔を出さない」「アナウンス部のシフトに入らず、自分でシフトを決めて勝手にやっている」という勤務形態であり、当時は「徳光にはニュース読ますな」が社内の定説だった[12]

1979年3月から放送を開始した『ズームイン!!朝!』では総合司会を9年間担当。1988年4月からは『NNNニュースプラス1』のメインキャスターを務めた。自身に『プラス1』キャスターとしての白羽の矢が立ったのは「『ニュースステーション』のおかげで、ニュースそのものが難解な言葉を多用するものから、分かりやすいものに変わっていったことに影響されたのではないだろうか」と話し、「『プラス1』の3年間は世界的にも激動の3年間で、人にものを伝える難しさというものを学んだ」とも話している[4]

フリー転身後

1989年9月末に日本テレビを退社し、翌10月よりフリーとなる[10]。『ズームイン』から『プラス1』に担当番組が代わった頃から「俺はバラエティ番組情報番組に慣れていたからニュースキャスターは合わない」と思うようになり[13][14]、管理職昇進(アナウンス部副部長)の話が挙がることに対し、徳光は数字の管理が苦手で「役職が付けば、今まで全くやったことが無い事務的な仕事もしなければいけなくなるだろうし、自分の管理も満足にできない人が、上に立って他人の管理をすることは出来ない。俺は事務職ではなく、現場で生きていきたい」と思ったことなどがフリー転身のきっかけとなった[15]

フリーとしての最初の仕事は古巣の日本テレビであり、同年10月1日の夜に生放送された特番『徳光和夫の面白生放送 プロ野球バンザイ!』だった。

1990年以降は『クイズダービー』(TBS)、『徳光のTVコロンブス』(テレビ東京)を皮切りに各局で多くの番組を担当し、さらに結婚式の司会等でも活動する。

2010年からは、初のラジオの生放送レギュラー番組となる『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』(ニッポン放送)が放送開始。当初は約6時間という長丁場を担当し、その後放送時間は2時間40分に縮小されたが、現在も出演中である。

2011年の『24時間テレビ34』では総合司会を勇退し(後任は羽鳥慎一)、当時70歳にして番組史上最高年齢となるチャリティーマラソンのランナーを務めた。2012年以降は、スペシャルサポーターとして引き続き番組に携わっている。

2016年11月24日には日本レコードマネジメントの40周年記念式典の司会を務めた。

エピソード

  • 愛車は日産・シーマ(F50型)[16]だが、本人は運転免許を持っていない。自動車教習所には通っていたが、指導員と口論をして運転免許取得を辞退した[17]
  • 大の箱根駅伝好きで、毎年沿道で応援をしている。大会前に独自に入手した選手のデータを手に実況を行うほどの熱の入れようで、今では復路8区の茅ヶ崎の名物になっている。この模様は自身が総合司会を務める『ザ・サンデー』の新年1回目の放送で毎年必ず放送されていた。なお、本人は「あくまでプライベートで応援しているものであり、撮影クルーは勝手に収録している」と語っている[18]
  • 『24時間テレビ』に毎年顔的存在として出演しており、1978年の第1回から皆勤している唯一の人物である。ただし、1990年から1994年にかけては同時間帯に他局で生放送のレギュラー番組があり(『徳光のTVコロンブス』)、その時間帯は抜けていた。
    • その『24時間テレビ』が、今日までつづく夏の名物番組となったのは、第1回目における徳光と当時の小林與三次社長のやり取りが原因と言われる。あくまで日本テレビの開局25周年により1回限りの番組の予定であった。徳光が小林與三次を呼び出して締めてもらおうとするも、社長コールが起こってしまい、結果「ご支持いただくなら何度でもやります!」の発言につながることとなった[19]
  • 「自身が結婚式で司会を務めた著名人夫婦は、何故か7割が後に離婚するジンクスがある」と噂された[20]。しかし2010年12月27日放送のテレビ朝日『中居正広の怪しい本の集まる図書館』でのインタビューにて、司会を務めた夫婦のうち実際に離婚したその離婚率のパーセンテージは番組中で「23%」(日本における平均は30%)と計算された[21]
  • 65歳になった2007年、年金の申請を行ったところ、社会保険庁の記録で「死亡扱い」を受けていたことが判明した[22]
  • 入社直後の1968年以降、プロレス中継を担当していた時期が長く、プロレス関係者との交友も深い。特にジャイアント馬場との友誼関係は深かった。上田馬之助とは上田の若手時代から親しかったこともあって、上田のことを「馬さん」とその生前には呼んでいた。また日本プロレス時代から実況経験があることからアントニオ猪木とも接点があり、猪木のことを若手時代の愛称である「寛ちゃん」[注 11]と呼ぶ[23]。スポーツ中継などで、「全国一千万人の○○ファンの皆様、こんばんは」の名文句があるが、これを言ったのは自身による「全国一千万人のプロレスファンの皆様こんばんは」が元祖だった(こういった台詞を最初に披露したのは、日本テレビの先輩アナに当たる清水一郎だったとも言われている)[24]。馬場と猪木の「BI砲」も德光によるもの。
2022年8月21日、『24時間テレビ』に猪木が出演。これが生前最後のテレビ出演であった。猪木と応答をした德光は「正直ショックを受けた。見たくない現実だった」と言いつつも握手を交わした。その際に「握り返してくれた時の手の弱さに、『元気になってほしい、また逢いたい』と思った。」という。その1か月後の10月1日、猪木が死去。「心よりご冥福をお祈りいたしますが、本心は悔しい。もう一度、逢いたかった」とコメントを寄せた[25]
  • 好きな食べ物はメロンパン[26]おはぎ[27]
  • 美空ひばり矢沢永吉のファンである[28]。アナウンサーになった理由は、巨人戦の実況がしたい他に、ひばりの曲紹介がしたかったからと言う程である[29]
  • にかなり悩まされていた。息子の正行も「痔が自分たち息子にも遺伝した」と述べている[30]

巨人ファンとして

熱狂的な長嶋茂雄ファンかつ巨人ファンであり、芸能人野球ファンのはしりである。この「巨人ファン徳光」のキャラクターは、『ズームイン!!朝!』の人気コーナー「プロ野球イレコミ情報」で定着したものであるが、これにより自身の巨人にかかわる言動が取り上げられる機会も少なくない。一方で相手球団に対する問題発言が多く(特にパ・リーグに対して)、他球団ファンからしばしば反感を買っている。その一方でラジオ番組を担当するようになって以降はパ・リーグであっても巨人寄りな面はあるにせよ問題発言は減り、他球団であっても選手を評価する一面もある。

  • 1974年10月14日月曜日)の長嶋茂雄の引退試合後楽園球場、対中日ドラゴンズ戦)を直接観戦しに訪れている。しかし当日はアナウンス部の者を含めてほとんど誰にも明かさずに後楽園球場へ向かい、当日に生放送があった『NTV紅白歌のベストテン』(当時徳光は本人曰く「大したリハーサルは無かった」というスタジオのベストテン本部担当)のリハーサルをすっぽかす形になったため、スタッフにずいぶん捜されたという。なお、試合終了後に急いでタクシーで後楽園から当時日本テレビ本社があった麹町へ戻り、長嶋の引退セレモニーはスタジオのテレビで観ていた。これについて「セレモニーまで球場で観ていたらさすがにクビになるかも」と思って急いで戻ったということで、セレモニーを直接観れなかったことは「大悔やみ」と後に話している。「それまで試合後に引退セレモニーがあった選手を見たことがなかったので、セレモニーがあるのをよくわかっていなかった」とも話している[31]
  • 王貞治の現役時代最後の本塁打となった868号のバットを所有しており[32]、テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』に出品したことがある。
  • 1980年に、長嶋が巨人監督を解任された翌日(10月22日)の『ズームイン』では、巨人球団や川上哲治への抗議を行い、讀賣新聞報知新聞の購読を「辞めます」と発言。この抗議は放送開始から26分に亘って行われた。この放送を見ていた長嶋から「もし、徳光さんがどんなことに巻き込まれても私が面倒を見る」と発言し、以来、長嶋との交友が始まっている[33]
  • 1982年に『ズームイン!!朝!』で「巨人が優勝できなかったら丸坊主になる」と発言したが、中日が優勝したため、名古屋中京テレビでコーナーを担当していたきくち教児板東英二によって、バリカンで丸坊主にさせられた。

日本テレビアナウンサー時代

  • 日本テレビのニュースを降ろされた理由は「国家予算は、5兆円」と言うはずが、「国家予算は、5円」と言ってしまい、「常識が無さすぎる」というものである[34]。後年に語ったところでは、これは德光が新人時代の頃のこと。当時は日本テレビの報道局の記者が書いてきた原稿をしっかり読むことに重きを置いてニュースに臨んでいた。この「国家予算が5円」というのも、元を辿ると原稿に間違って書いてあり、それを鵜呑みにしてそのまま読んでしまったのが原因という。このことを上司に報告したが「それにしてもお前、常識で考えたらわかるだろ」と却下されたという。
  • キユーピー3分クッキング』に出演していた際、調理している人の横で腕を組むシーンに対して、視聴者から抗議の手紙が多数寄せられたことや、料理の初心者故に「味噌汁は味噌に水を入れて作るんですね」などと的外れな発言を行なったことから、こちらも上司に苦言を呈され「料理番組の司会に向いていない」と言われて、僅か3ヶ月で降板した[35]
  • 1980年にスタートした『NNSアナウンス大賞』の第1回最優秀賞受賞者である。
  • 1983年2月から1985年6月まで、日本テレビのキャッチフレーズ「おもしろまじめに4チャンネル」のイメージキャラクターを、小林完吾とともに務めた(自身が「おもしろ」、小林が「まじめ」として)[36]。このコンビで局の垣根を超えて『笑っていいとも』の「テレフォンショッキング」に出演しており(1983年4月5日)、ドラマでも『太陽にほえろ!』の550話「俺はプロだ!」にて出演している(1983年4月1日)。
  • 日本テレビ時代の同僚である福留功男とは50年以上の親友関係にあるが『アメリカ横断ウルトラクイズ』での役回りから、一時期はテレビで「犬猿の仲」を演じていたことがあった[37][注 12]。しかし、徳光はアナウンサーとプロデューサーを合体させた造語を用いて「トメはアナデューサーだ」と福留の放送人としての才能を評価している[37][注 13]

ギャンブル

大のギャンブル好きである。特にボートレースが大好きであり、選手の心理状況や家族構成まで調べるくらいに熱中している。日本テレビ時代に『ズームイン!!朝!』を担当していた時は、番組が終わるとほぼ毎日のように平和島競艇場に直行していたと言われている。「競馬は遊び、競艇は勝負」が口癖でもあるという[38]

  • 競馬では大穴狙いが多く、負けて当然といった馬券の買い方をよくする[38]。ウインズ後楽園によく出没する。1997年2月17日には、船橋競馬場で当時の南関東公営競馬史上最高配当記録となる馬複(馬連)20万馬券を的中し、約800万円の払い戻しを受け、大々的に報じられた(この時はウインズ新橋の場外発売で馬券を購入)。その際、徳光の馬券予想コーナーを掲載していたスポーツ報知では「徳さん万馬券的中」と1面で報じたが、別のスポーツ新聞は徳光であることに気がつかず、「初老の男性が換金に来た」と報じた。
  • 競輪では自宅のある茅ヶ崎に程近い平塚競輪場を訪れる。2007年日本選手権競輪など、当地でのテレビ中継のゲストに呼ばれたこともある。
  • 公営競技以外にも麻雀も打つ(過去にはストレス解消法として、深夜まで及ぶことがあった[39])。

入院生活

2001年6月に、急性心筋梗塞を患い緊急入院したが、同月末に現場復帰。息子・正行の著書によれば、年齢不相応の不摂生が原因であるという。「健康に気を遣うということが、既に不健康である」というのが自身のモットーであったが、後にこの認識は改めざるを得なかったと後に語っている。

この経験により、2008年からはアステラス製薬が展開する、コレステロール適正管理キャンペーンに起用され、CMなどで日常での健康管理の重要性を呼びかけた。

親族

  • 遠くへ行きたい』の第2100回記念「僕のご先祖様は屯田兵」(2012年4月放送)では旅人として北海道を訪ね、その際には滝川市で長年の念願だった墓参を果たしている。しかし、NHKの『ファミリーヒストリー』(2013年1月21日放送)で、先祖は元々江差でニシン漁をし、その後現在のえりも町に移住した漁師であることが判明した[40]。その『ファミリーヒストリー』によると、騎手・福永祐一(現・調教師)の高祖父、元競馬関係者の福永甲福永二三雄福永洋一ら兄弟の曽祖父の妹と、徳光の祖父の兄が結婚しており、遠い姻戚関係にある[3]。また、ジャーナリスト・服部誠一は母方の曽祖父である[40]。福永祐一の妻は元フジテレビアナウンサーの松尾翠(現・ホリプロ所属)で、結婚により徳光とは遠縁の親戚となった[40][注 14]。また、正行の元妻でフリーアナウンサーの田野辺実鈴とは5年間のみではあったが、義理の娘の関係であった。
  • 甥のミッツ・マングローブとは、サントリーBOSS」のCMで親子役で共演しており、劇中で和夫に平手打ちされるシーンについてミッツは「本当の親にも殴られたことないのに、まさか伯父に殴られるとはね。40歳にもなって」と心境を明かしていた[41]

出演

テレビ番組

現在

過去

日本テレビ

ニュース・情報番組

その他

テレビ朝日
TBS
TBSアナウンサーの安住紳一郎と共に司会を務めていた「徳光&安住の感動再会“逢いたい!”スペシャル」をレギュラー化。
  • スパモク!! ザ!芸能人ナイショのストーリー(秘)映像GP 司会 / 2010年5月27日
  • 地球SHOW学校 司会 / 2010年11月22日
BS-TBS
毎日放送
1995年4月から2008年9月までMBS・TBS系にて放送されていたウルルンシリーズの再放送および未公開名場面集を基本としたBS-TBSのオリジナル番組。
テレビユー福島
  • 円谷英二 大空を愛したウルトラマン∶再現VTRの円谷英二役 / 1994年2月6日
テレビ東京
テレビ大阪
フジテレビ
NHK
  • ファミリーヒストリー (2013年1月21日)
日本BS放送(通称・BS11)

テレビドラマ

映画

テレビアニメ

劇場アニメ

吹き替え

ラジオ番組

ニッポン放送
STVラジオ
NHK
アール・エフ・ラジオ日本
  • 徳光の3等社員・サラリーマン読本
  • 徳光和夫のがんばれジャイアンツ
  • 徳光和夫のおじさんグラフィティ
  • 徳光教授の巨人学講座(1998年度ナイターオフ、1999年度ナイターオフ)

インターネット番組

広告

出没!アド街ック天国のランキング紹介と同じように1人ずつ紹介していく、ナレーションは、アド街ック天国でもナレーションをしている武田広。徳光はナビゲーター。

イベント

MV

音楽

著書

  • 『徳光和夫の ズームイン!!巨人軍』(1981年1月1日、サンマーク出版ISBN 978-4763189103
    • 徳光和夫のズームイン!!巨人軍』〈旺文社文庫〉、旺文社、1984年7月20日。ISBN 978-4010642917
  • 『有名人のないしょ話―ちょっといいエピソード集』(1984年9月、青年書館)ISBN 978-4791801244
  • 企業内自由人のすすめ講談社、1987年9月10日。ISBN 978-4062036016
  • 『今年もやっぱりジャイアンツ』(1988年4月、天山出版)ISBN 978-4803314076
  • 『徳光和夫の巨人軍スカウティングレポート』(1999年4月、ぶんか社ISBN 978-4821106585
  • 『徳光流生き当たりばったり』(2021年8月、文藝春秋社ISBN 978-4163911793

連載

脚注

注釈

  1. ^ 戸籍上。実際は3月3日。
  2. ^ 漢字で「奴」と書き、接尾辞として自分や自分に関することを謙遜卑下する意を表す言い回し。
  3. ^ クイズダービーの司会をしていた頃は、や「徳光ちゃん(とくみっちゃん)」などと挨拶していた。
  4. ^ 和夫がレギュラー番組を持つニッポン放送で番組を担当することがあり、その際には「ミッツ」、または本名の「修平」と呼ぶ。
  5. ^ 父が日本テレビ役員、本人が日本テレビアナウンサー、息子も日本テレビの番組に出演しているため、親子3代に渡って日本テレビにも関与している。
  6. ^ 当時は軍国主義が強く唱えられた時代で、徳光の生まれた1941年に太平洋戦争が勃発した。
  7. ^ 福永との親戚関係は2013年1月21日放送のNHK総合テレビファミリーヒストリー』(徳光のルーツを辿った内容)で明らかになった([1])。
  8. ^ 他局の同期ではNHK加賀美幸子広瀬久美子村田幸子名取将森本毅郎吉川精一フジテレビ岩佐徹露木茂能村庸一
  9. ^ 日本テレビはアメリカ中央情報局(CIA)の手先として、開局当初から学生運動や左翼運動を批判する立場を取っていた(詳細は中央情報局正力マイクロ波事件も参照)。
  10. ^ 日本テレビはジャイアント馬場が率いる全日本プロレスの中継権を持ち、看板番組の一つとしてプライムタイム|ゴールデンタイムに放送していた。
  11. ^ アントニオ猪木の本名は「猪木寛至」で、前座時代の猪木は本名でリングに上がっていた。
  12. ^ 現在でもテレビ番組の企画などで(時には、さらに後輩でともに『ウルトラクイズ』に関わった小倉淳も巻き込む形で)福留への口撃を時折展開することがある。ただし、あくまでも本人たちは洒落として行っている(いわば『笑点』における「罵倒合戦」と同様)ことが視聴者にはきちんと伝わっておらず、結果として徳光、福留両名に対する根拠のない誹謗中傷につながっている一面がある。
  13. ^ 実際、1991年の『24時間テレビ』、1993年の『ズームイン!!夜!』、1998年の『今世紀最後!!史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』、1999年の『11PM』特番で共演している。
  14. ^ 同期には秋元優里生田竜聖元夫人)、本田朋子五十嵐圭夫人)、小穴浩司がいる。

出典

  1. ^ 土屋太鳳、永尾柚乃ら、『24時間テレビ47』出演決定 長嶋一茂、伝説の家政婦・志麻さんが能登の人々と向き合う企画も”. クランクイン (2024年8月17日). 2024年9月3日閲覧。
  2. ^ ファミリーヒストリー 徳光和夫〜父は映画監督・驚きのルーツの数々〜』(NHK総合、2013年1月21日 [2]
  3. ^ a b 優駿 2021年9月号「徳光和夫の私も80になりました」#5 P125
  4. ^ a b c d e 週刊現代 2013年11月16日 66-68ページ『私の地図』
  5. ^ 週刊ベースボール[いつ?]
  6. ^ 林真理子ゲストコレクション」『週刊朝日』2007年8月24日号、p.51。
  7. ^ a b 林真理子「マリコのゲストコレクション」『週刊朝日』、朝日新聞出版、2007年8月24日、54頁。 
  8. ^ 徳光正行・著『せんえつですが…徳光和夫の日常』(幻冬舎)『第4章・巨人愛』より。
  9. ^ "徳光和夫「もう80歳だから思い出も1日に3つずつ消えていく」". AsagiBiz. 徳間書店. 10 January 2022. 2022年1月10日閲覧
  10. ^ a b 林真理子「マリコのゲストコレクション」『週刊朝日』、朝日新聞出版、2007年8月24日、51頁。 
  11. ^ 林真理子「マリコのゲストコレクション」『週刊朝日』、朝日新聞出版、2007年8月24日、54頁。 
  12. ^ 『ディレクターにズームイン!!』(齋藤太朗著、日本テレビ、2000年)pp.35 - 37
  13. ^ [3],日刊スポーツ,2014年4月24日
  14. ^ 2013年10月20日放送『誰だって波瀾爆笑』(2/3)”. TVでた蔵 (2013年10月20日). 2014年9月13日閲覧。
  15. ^ 『せんえつですが…徳光和夫の日常』154-155ページ
  16. ^ 木下優樹菜に徳光和夫「運転免許を持っていない」ある事情とは?”. Ameba NEWS (2016年1月24日). 2020年3月15日閲覧。
  17. ^ 徳光和夫 運転免許持っていない「教官にひじ鉄、足蹴りされて…」”. デイリースポーツ (2017年11月19日). 2020年3月15日閲覧。
  18. ^ 『せんえつですが…徳光和夫の日常』143-144ページ
  19. ^ 電波少年W 〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜』第17回、『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』。
  20. ^ 感動重視? 笑い重視? 自分の結婚式で司会をしてほしい芸能人ランキング”. マイナビウーマン (2014年8月30日). 2014年9月12日閲覧。
  21. ^ 2010年12月27日放送『中居正広の怪しい本の集まる図書館』”. TVでた蔵 (2010年12月27日). 2014年9月12日閲覧。
  22. ^ 徳光アナ「死んでいた」…年金記録で「死亡扱い」”. ZAKZAK. 産経デジタル (2007年6月14日). 2007年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月11日閲覧。
  23. ^ 徳光和夫 アントニオ猪木氏との再会秘話「あまり動かない手で一生懸命に動かしてくれた」”. sponichi annex (2022年9月3日). 2022年10月21日閲覧。
  24. ^ 【スポーツ異聞】「スポーツ実況」に元気がなくなってしまった”. 産経新聞 (2015年5月23日). 2020年3月15日閲覧。
  25. ^ 徳光和夫アナ「もう一度、逢いたかった」 「24時間テレビ」でアントニオ猪木さんと最後の共演”. スポーツ報知 (2022年10月1日). 2022年10月15日閲覧。
  26. ^ 路線バスで寄り道の旅 テレビ朝日 2015年06月21日(日) 15:25~16:30「甘いものに目がない徳光がメロンパン&あんみつの誘惑にKO!?」”. エンタ魂 (2015年6月21日). 2020年3月15日閲覧。
  27. ^ 徳光和夫、「堀北真希ちゃんのおはぎがほしい」 自身のことはさて置き、「巨人はまだ大丈夫」”. エンタメOVO. 共同通信社 (2011年7月14日). 2020年3月15日閲覧。
  28. ^ 『せんえつですが…徳光和夫の日常』126-128ページ
  29. ^ 『せんえつですが…徳光和夫の日常』124-125ページ
  30. ^ 『せんえつですが…徳光和夫の日常』62-65ページ
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関連項目

外部リンク