崇宗 (西夏)
崇宗(すうそう)は、西夏の第4代皇帝。諱は乾順。中興の英主として評価されている。
崇宗 李乾順 | |
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西夏 | |
第4代皇帝 | |
王朝 | 西夏 |
在位期間 | 1086年8月 - 1139年7月1日 |
姓・諱 | 李乾順 |
諡号 | 聖文皇帝 |
廟号 | 崇宗 |
生年 | 大安10年(1084年) |
没年 |
大徳5年6月4日 (1139年7月1日) |
父 | 恵宗 |
母 | 昭簡皇后 |
后妃 |
耶律皇后 任皇后 |
陵墓 | 顕陵 |
年号 |
天儀治平 : 1086年-1089年 天祐民安 : 1090年-1097年 永安 : 1098年-1100年 貞観 : 1101年-1114年 雍寧 : 1114年-1118年 元徳 : 1119年-1127年 正徳 : 1127年-1134年 大徳 : 1135年-1139年 |
生涯
編集父の恵宗の急死により、わずか3歳で即位。当初は先代に続いて祖母の梁太后が実権を掌握し、その専横による弊害で政治腐敗が進んだ。さらに軍事力も衰退し、北宋が機に乗じて国内に侵入、西夏軍は敗退している。永安2年(1099年)に16歳で親政を始めると、梁氏一族を誅殺。また官僚制度を整備、賦役を軽減するとともに、農業振興として水利事業に着手するなどの改革を行い、西夏の国力を充実させ、経済的、政治的にも大いに発展した。
またこの時期は北宋・遼の衰退期であり、崇宗は遼と同盟を結んで宋へ侵攻、その版図を拡大し、また金の攻撃を受けた遼の天祚帝が亡命を求めた際には、この要求を拒絶し、金と協力して遼を滅亡させ、河西千余里の地を領域に組み込むなど、外交的にも大きな功績を挙げた。
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